[筋ジフトロフイの少年] 

この連載も残り少なくなってきた。昭和27年(1952年)わが国でアマチュア無線が再開されてから50年、島さんは50年間、キーを叩き、マイクに向ってしゃべり続けてきた。いろいろなことがあった50年間であった。これまで書き切れなかったいくつかの思い出をつづってみた。

最初は筋ジストロフィと戦いながらハムになった少年の話。大阪万博が開かれた昭和45年、特例として大阪・豊中市の刀根山病院で電話級アマチュア無線の試験が行なわれた。この時、17歳の酒井彰君、13才の津田佳伸君らが合格した。島さんは「全国で初の出張試験だったと思う」という。酒井さんがハムになろうと決心したのは大阪万博がきっかけだった。

病室で賑わう記念局JA3XPOの話題や無線室の写真を見て、ハムになることを決意。病院の担当医に請われて酒井少年らを訪ねた島さんは、アマチュア無線の楽しさを話した。どうしても交信の現場を見たくなった酒井少年ら3人が、車椅子に乗って記念局を訪ねきたのはほどなくしてであった。猛勉強の結果、酒井少年は島さんが驚くほどの短期間で合格してしまった。

コールサインはJH3FYN。3年後に「第2級アマチュア無線技士」の資格も取得する。大阪市内の「関西TV技術専門学校」で行なわれた試験では、島さんは試験官の一人であったが「何とか合格して欲しい」と願っていた。少年はシートの上に腹ばいになって、必死に問題と取り組んだ。「心配は無用でした。立派な成績であり、上位の合格でした」と島さんは思い出していう。

酒井少年は、昭和54年(1979年)には大阪万博を記念してJARLが毎年実施している「XPOコンテスト」で第2位に入賞、翌年は第1位の成績だった。当時のJARL大阪支部の中村正好(JA3VPP)支部長とともに島さんは病院を訪ね、表彰状と記念メダルを手渡し励ましたこともある。

わが国の「無線従事者国家試験及び免許規則」では精神病者、耳の聞こえない者、口の利けない者、目の見えない者には資格が制限されていた。JARLや一部のハムがこの問題に取り組み、規則の改正を通じて身体障害者もハムになれる道を切り開いてきた。平成8年には誰でも資格が取れることになった。

千葉・四街道市の伊藤璋嘉(JA1CVR)さんらも筋ジストロフィー患者を支援し、福島あき江(JN1NYS)さんがハムとなった。

筋ジストロフィー患者には各地のハムが手を差し伸べていた。関西では昭和48年(1973年)に京都市右京区の国立療養所宇多野病院筋ジストロフィー症児特別学級で、再び電話級の出張試験が行なわれた。この時は患者とともに勉強した先生や看護婦ら23人もが受験した。

3年前に刀根山病院で合格し、この特別学級の病室をシャックとしていた津田少年に感化されてのチャレンジだった。島さんはいう「筋ジストロフィーの方はもちろん、身障者の方は外部の人と話す機会が少ない。アマチュア無線はそれを補うものであり、健常者以上に必要なものだと改めて感じた」と。

身体障害者のハム第1号は、目の不自由な砂本勉さんであり、昭和34年にJA4VBとなった。写真は第7回通常総会後の懇親会での砂本さん。(右から2番目)

[ボート遭難 無線はすばらしい] 

昭和56年(1981年)に神戸市で開かれた「ポーアイ博」では、太平洋横断のヨットレースが行なわれたのは先に触れた。レースには11艇が参加し、そのうちの「太陽」と、島さんは毎日定時交信していた。サンフランシスコを出発して13日目の6月21日、日本は日曜日であった。島さんは朝、北回りで帆走している「かざぐるま」がトラブルのためサンフランシスコに引き返すことを知ったが、その時は島さんも「大して気にしていなかった」という。

昼過ぎに21MHzをワッチしていた島さんはびっくりする。「かざぐるま」が船底から浸水し、コーストガード(米国沿岸警備隊)に救助を要請している通信を聞いたからである。「ライフラフト(救命いかだ)は破損して使用不能」「沈むまでにはまだ時間がかかるだろう」「付近を航行中の日本船2隻が救助に向った」など刻々と状況が伝わってくる。

ハワイのジョージ(AH6BZ)さんが「もうすぐ救助の飛行機が行く。頑張れ」と励ましているのも聞こえてくる。島さんは近畿電波監理局で船舶無線の免許監督業務に携わったことがあり、船の遭難についても詳しかった。「飛行機から海の荒れているアリューシャン沖で小さなヨットを見つけるのは極めて難しい。声を聞きながら何もできない自分が歯がゆい」とやりきれない気持ちだった。しかし、奇跡的に飛行機は「かざぐるま」を見つけた。ライフラフトを投下し、次いでチャンネル16の非常用無線機がパラシュートで落とされ、飛行機との直接交信が可能となった。

それまでの交信は、付近の日本船のハムから、ハワイのジョージさん、ジョージさんからサンフランシスコのK6KEW、そこから有線でコーストガードに連絡されていた。レースに参加していた「太陽」や「ハーフ ムーン ベイ」もアマチュア無線を通して励ましているのを島さんは聞いている。

飛行機の誘導により、日本の自動車運搬船「ファーイースタン ハイウェイ」が現場近くでレーダーで「かざぐるま」を確認、救助したとの情報が入る。島さんは「遭難通信というより、壮大なドラマを見る思いだった」という。そして「献身的に通信を中継したハワイのジョージさんの最後の言葉“無線は素晴らしい”が今でも耳に焼き付いている」と語る。