[生い立ち] 

荒川さんが生まれたのは大阪市のど真ん中ともいえる北区天満橋筋六丁目(現在の菅栄町)である。日中戦争開始1年後の昭和13年(1938年)の年である。戦火は中国大陸で拡大を続け、それにともない戦地に送るための徴兵が激しくなっていった。さらに、昭和16年(1941年)に太平洋戦争が始まると「贅沢は敵だ」といわれ、華美な服飾は慎まざるをえなくなる。

荒川さんの両親と妹。3歳のころ

荒川さんの父親は店舗を持ち洋服の仕立て業を営んでいたが、洋服の注文は激減し「国民服」と呼ばれるお仕着せの服づくりが中心となった。昭和18年(1943年)一家は大阪府泉南郡佐野町に移転する。荒川さんは「疎開でした」というが、このころは国内のどこも爆撃の被害を受けておらず、大阪市への空襲が始まったのは昭和19年(1944年)の12月からであった。

ただし、それ以前に爆撃を受けるという例外はあった。昭和17年(1942年)4月、銚子沖1200Kmの米空母ホーネットから飛び立った中型爆撃機16機が東京、名古屋、神戸などを空襲した。開戦持の真珠湾攻撃の報復が目的といわれている。ちなみに、この後軍は慌てて日本近海に配置する哨戒用漁船に積み込む56MHz無線機の製作を当時のJARLに依頼している。

しかし、その後の空襲は早い地区でも昭和19年の後半であり、荒川さん一家の疎開は極めて先見性のあるものであった。仮に、疎開していなければ後に全焼の被害に遭っていた可能性が強かった。大阪では終戦までに大小50回の空襲があり1万2620人が亡くなっている。

[子供時代] 

荒川さんは昭和19年(1944年)佐野幼稚園、20年(1945年)に佐野男子国民学校に入学。昭和16年に施行された「国民学校令」によって、それまでの「尋常小学校」は国民学校と呼び名が変っていた。学校は昭和22年(1947年)には佐野町立第一小学校、さらに翌年には泉佐野市が誕生したことから泉佐野市立第一小学校へと変遷を遂げている。

小学校時代の荒川さんは工作好きの少年だった。同じ趣味を持つ級友に「田島守亮君(後にJA3HQP)がいて、よく一緒にブラシ付きモーターを作り、模型の電車を走らせて遊んだ。鉛電池を作ったこともあるが劇物の希硫酸をどのように手に入れたのか、今は思い出せない」という。「理科の授業は大好きでした」という。悲しいことに昭和22年(1947年)小学校3年の時に父親を失っている。

[中学時代] 

昭和26年(1951年)は、8月には連合軍48カ国と日本の対日講和条約が締結された年であるが、また、日本の産業経済は、前年に勃発した朝鮮戦争の恩恵を受けて好転していた。荒川少年は泉佐野市立第2中学に入学。このころの思い出は「公民館でラジオの勉強をしたこと」という。大阪府教育委員会主催の「青少年産業教育講座」が各地で開かれていたらしく、荒川少年は友達2、3人とともに参加している。しかし、最後まで残ったのは荒川少年一人だった。

この講座にはいくつかの課目があり「自動車工学科などもあったが、私たちはラジオ科を選んだ」という。指導は佐野工業高校の教師が担当したらしいが、このような実業教育が全国的に行われたのかどうか、調べた限りでは分らなかった。また、同時に当時あったラジオ教育研究所の「ラジオ工学講座」を通信教育で勉強したこともあった。そして、古い並4式ラジオを壊しては組み立てたりした。友達には「君はいつ訪ねてもトランスのコイルを解いたり巻いたりしているね」といわれた。

[高校時代] 

荒川さん自身は語らないが、小・中学時代を通じて成績は優秀でありしばしば級長を務め、中学時代は自治会の会長に選ばれた。昭和29年(1954年)に大阪府立今宮工業高校に入学。明治41年(1908年)大阪府は西野田に府立職工学校を設立、さらに大正3年(1914年)に、当時の西成郡今宮に分校を設立、それが今宮工業高校の前身であった。「専攻は電気科で重電気の勉強や実習が中心であったが、弱電というのか通信関係の実験/実習などもあって、グループで“レッヘル線波長計”“八木空中線”“ハートレー発振器”などの実験を行った。これが後のアマチュア無線に役立っている」と言う。

高校時代。先生との2ショット

すでに「ラジオ少年」になっていた荒川さんはすぐに「無線技術研究クラブ」に入部。3年生には上銘正規(JA3FR)さん、山崎杲(JA3GN)さん、岡本吉永(JA3KD)さんらがおりアマチュア無線というものがあるのを知り、いろいろ教えてもらう。荒川さんは、電子部品販売店の多かった浪速区の日本橋から買ってきた部品を使い、短波受信機を組み立てたりしたが、同級生でアマチュア無線に興味を示していたのは澤田良平さん(後にJR4GXL)くらいであった。

アマチュア無線の免許は昭和31年(1956年)2年生の時に第2級を受験して合格したが、送信機まで作る資金がなく、開局は早川電機工業(現シャープ)株式会社に入社して、給料を貰うまで待たなければならなかった。そのため2文字のコールサインを逃がしJA3AERとなった。当時、就職先としては電力会社なども考えていたが、1番先に合格したシャープに決めたいきさつがある。

わが国でテレビ放送が始まったのは昭和28年(1953年)であり、就職したころは「もちろん白黒テレビの時代であったがテレビ受像機が売れており、会社の業績は良かった」ことを覚えている。このころはアマチュア無線開局までの手続きは煩わしく、自作の送受信機の局設備の検査もあった。送信機は送信管にミニチュア管の6AR5を使ったものだった。

[初交信] 

そのころ、荒川さんは大阪府下の熊取町に移っていた。予備免許は貰ったものの、「近くにアクティブなハムがおらず、実験のためレコードをかけっぱなしにし、その音楽をマイクで拾って送信し、受信機を自転車に積んで移動して、離れた場所で受信して電波の飛んでいることを確認した」らしい。全てが自作の機器で整備に時間がかかり、落成検査の期限を延長して万全を期した。

「落成検査」は1人の係官が両手に重い測定器を提げて熊取駅から2km程の道を歩いて訪ねて来た。局設備の検査はさしたるトラブルもなく合格し、初めての交信は昭和33年(1958年)4月2日、7MHzのAMで横萩繁治(JA3ADT)さんとだった。「アンテナはワイヤーを張っただけのものであったが、国内の各エリアと交信でき、2ケ月もかからずAJD(日本全10エリア交信)が完成した」という。昭和34年(1959年)に電波法が改正され、2級免許は電話級免許に換えられたが、荒川さんは2年後に2級(新2級)免許を取得している。

免許取得後最初のシャック