[荒川さんの職場生活] 

シャープに入社した荒川さんは、大阪・西田辺の現本社の反対側にあった「本社製造部第七製造課」に配属された。白黒テレビの製造ラインであった。「組み立ては現在のような自動化が進んでいないため、女子社員が中心に生産ラインにずらりと並び手作業による生産であった。最初のうちはラインのスピードに追いつけず、隣の社員に手伝ってもらった」ことを荒川さんは思い出している。

そのころになると、戦後の疲弊した産業も経済も立ち直り「高度経済成長」が始まっていた。国民の娯楽もラジオを聞くことからテレビを見ることがあこがれになっており、比較的恵まれた家庭向けにテレビ受像機が売れ、生産は多忙だった。また、それにともない購入されたテレビ受像機の修理が増えていった。

AJDアワードとJARL高槻アマチュア無線クラブのアワード

[サービス部門に配属] 

1年ほど経つと休みの日ごとにその修理サービスの応援を言いつけられた。荒川さんは高校時代に「ラジオ受信機修理技術者検定規程による検定試験」に合格していたが、テレビ受像機についても受像機キットを買ってきて組み立てた経験がある。さらに、製造ラインでの経験から修理についてもかなりの技能をもつようになっていた。

ほどなくして、正式にサービス部門に転出となり「第1営業部大阪サービス第1課」に配属になる。サービスの巡回には車を運転することが必要であり「夜に自動車学校に通い、自動車の運転免許をとった」のもそのころである。サービス部門には5年ほどいたが「2年ほどすると故障した受像機のスイッチを入れて様子を見るだけで故障場所がわかるようにまでなった」という。

ただし、仕事は大変だった。「顧客は一刻も早く修理してもらいテレビが見たい。待たしてはいけないため、夜遅くなっても伺った。ただし、そのころは訪問先を探すのは楽だった。テレビ受信アンテナが高く建っておりすぐに分った」という。昼時の訪問ではよく昼食をご馳走になった。「訪問先2、3カ所でご飯を出され、断るのは失礼なので食べ過ぎて腹をこわすこともあった」と笑う。

時代は、日本人全体がモーレツに働いたころである。「修理依頼のあったお宅を尋ねると、もう部屋には布団が敷かれており、慌ててふとんを片付けるような時間になっている」ことも少なくなかった。仕事を終えて会社に戻ると最終電車が出てしまって帰れないこともあり「そんな時はサービスカーを借用して帰った」と、懐かしげに当時を語る。

[テレビ設計部門に配属] 

サービス部門勤務当時、荒川さんは設計部門に故障が頻発する個所、回路について修理体験に基づいて情報を提供していた。「時には故障部品の現物をもって行き、文句を言ったこともある」と言う。設計部門にとってはありがたい話でもあったが、煩わしい指摘でもあった。「そんなに言うならお前が設計に来てやってみろというのが異動の理由ではなかったか、と思う」と荒川さんは推察している。

昭和28年に白黒テレビ放送が始まった当初、テレビ受像機は輸入品が先行して販売された。そのなかでシャープはいち早く国産テレビを販売した。しかし、それでも製品は米国製の物真似であった。昭和30年代になるとようやく国内メーカーが独自の技術を開発し、回路などが変りつつあった。「それだけに過渡期であるゆえの問題点がしばしばおきた」という。昭和39年(1964年)配属されたのは無線事業部第2技術部だった。

[アマチュア無線クラブ] 

アマチュア無線から話しがそれたが、荒川さんが入社したころ、シャープにはアマチュア無線家が何人もいた。後に荒川さんたち10名ほどが集まりアマチュア無線クラブを作った。本社の一室で開局したクラブ局のコールサインはJA3YHUだった。実はアマチュア無線とシャープとの関係は深い。戦前の昭和8年(1933年)9月、当時の早川金属工業(早川電機工業の前身)社長であり、創業者の早川徳治さんは短波受信局の免許を取得している。

早川電機無線クラブのメンバーと。左端が荒川さん

早川電機無線クラブ局JA3YHUのQSLカード

戦前は短波を受信するだけでも許可をえる必要があった。次いで、昭和14年(1939年)7月に送信も可能なアマチュア無線(当時は私設短波長無線電信無線電話実験局)J3HG局の免許を取得していた。このころは個人局のほか、多くの企業、大学、旧制中学などが局免許を保有している。無線通信の実験が目的であったが、同時に情報収集のねらいもあったかとも思われる。

[鉱石ラジオ第1号] 

シャープが国産第1号の白黒テレビを開発したことには触れたが、戦前には国産第1号の鉱石ラジオを開発している。東京でシャープペンシルなどを生産していたシャープの創業者である早川さんは、大正12年(1923年)の関東大震災で家族も工場も失い、翌年、事業を再興するため大阪に移転、引き続きシャープペンシルの製造を行っていた。

その年の暮れ、早川さんは時計店で輸入の鉱石ラジオを見つけ、ラジオ受信機の生産を決意する。大正14年(1925年)から始まる予定のNHKのラジオ放送に備えて、需要が生まれてくると見込んでの新事業であった。電気の知識の全くない早川さんらがどのようにして短時間でラジオ受信機を開発したのか、とくに、鉱石の分析をどのようにやったのかはいまだになぞである。

ラジオ受信機は年々需要が拡大、昭和4年には真空管式ラジオ受信機を開発して発売している。わが国でアマチュア無線が許可された翌年のことである。受信機とともにラジオ用部品の製造も手がけるようになった同社にとって、無線通信の研究は欠かせなくなっていった。短波の受信局、さらには送受信局の免許を取得した理由であった。

昭和17年(1942年)、すでに太平洋戦争が始まっていたが、早川さんは短波、超短波の技術開発を目的に「技術研究所」を設立、航空搭載用の軍用無線機を開発し、昭和19年(1944年)には量産に移している。このような無線通信の技術は戦後のラジオ受信機、テレビ受像機の生産に生かされたが、同時にアマチュア無線技術を大切にする考えが維持されていたといえる。