[クラブ局での活動] 

早川電機工業にできたシャープアマチュア無線クラブは、他のクラブと同様に会社のクラブとして認められ、無線機の購入資金もクラブ費から賄われた。無線クラブとしては華々しい活動歴はないもののメンバーは、就業後にクラブ室で運用し、時には昼休みにクラブ室にこもるメンバーもいた。会社の文化祭には公開運用をしたこともあり、時にはフィールド運用をしたこともある。

このクラブは最盛時には23名に達したが、大阪・平野、八尾、奈良・大和郡山など、同社の他事業所にもクラブが誕生し、最終的にはほとんどの事業所にクラブがつくられた。「本社のクラブは定期的にミーティングを行なったが、他の事業所のクラブとは交信はしたものの、社内合同ミーティングはなかったように思う」と、いうのが荒川さんの記憶である。

クラブのメンバーの所属はさまざまであり、とくにラジオ受信機やテレビ受像機の技術部門に所属している社員が多いわけではなかった。「したがって、アマチュア無線の技術を仕事に生かしていた人は少なかった」が、間接的にはいろいろと貢献したらしい。「海外からの来客がハムだとクラブのメンバーが呼ばれ、話しが弾み商談成立を支えたこともあった」と荒川さんは言う。 

[東住吉クラブ] 

荒川さんは昭和37年(1962年)には住まいのある地域に発足していた「JARL東住吉クラブ」のメンバーとなる。メンバーは学生が多い若いクラブであった。このクラブで荒川さんが中心となり昭和40年(1965年)に2つのアワードを制定した。WAHS賞(Worked All Higashi Sumiyoshi Award)とWANC賞(Worked All Numeral City Award)である。このうちWAHS賞は昭和49年(1774年)に「東住吉区」が「平野区」とに分れたのにともない、クラブ員も2分されたのが原因で、発行10年目の昭和50年(1975年)12月末をもって廃止された。

東住吉クラブのメンバーと

一方のWANC賞は、クラブが消滅してしまった現在でも続けられている。荒川さんはクラブがなくなり、しかも海外赴任中でもこのアワードを守り続けた。「クラブメンバーは学生が多かっただけに、卒業してしまうと就職で大阪を離たり、仕事が忙しくて時間が割けずにやめてしまう。やむをえないことだと思う」と残念がっている。

[海外からアワード発行] 

その後、荒川さんの海外赴任は断続的に長期化するが、アワードの申請は日本の自宅で受け付け、海外(東南アジア)から申請者には事情を説明する便りを送った。「帰国の折りにたまっていたアワードを発行したが、その後の米国、英国時代は現地からアワードを送った。かえってそれが喜ばれた」と言う。

その「WANC賞」アワードも、昨年(2005年)12月で受け付けを中止し、今年の4月1日で打ち切ることになった。「発行して以来40周年を迎え、また引き継ぐ人もなくなったため、これを契機に止めることにした」のが理由である。これまでの発行は3079枚。一方早々と中止したWAHS賞は200枚程度だった。

WAHS賞の賞状とWANC賞の賞状

[新2アマに] 

この間、先にも簡単に触れたように荒川さんの免許にも変化があった。昭和34(1959年)に電波法が改正され、アマチュア無線免許は、1級、2級、電信級、電話級の4種となり、入門しやすい電話級が誕生するなど画期的な改革となった。しかし、従来の2級は電話級に変えられるため、反対もあり、JARLは「旧2級」はそのまま「新2級」に移行して欲しいと当時の郵政省に要望したが認められなかった。

このため、荒川さんは一時電話級となったが、昭和36年(1961年)に現在の2級である「新2級」免許を得る。旧2級免許者は5年以内に、1分間45字の速度による5分間のモールス送受信の試験に合格すれば新2級の資格を得られるという救済策を利用したためである。

[テレビ共聴を手がける] 

再び職場に話題を変える。大阪サービス時代、荒川さんは「テレビ共聴」工事をたびたび手がけたことがある。わが国のテレビ放送は昭和28年(1953年)に開始されたことはすでに触れたが、その後全国各地に地方局が生まれ、またサテライト局ができ放送エリアを拡大してきた。それでも山間部などでは山などが電波を遮り難視聴地区が発生、その解消が急がれていた。

早川電機工業もその対策工事を受注、サービス部門が工事を担当することになっていた。荒川さんらは通常のサービス業務の合間を縫って、おもに和歌山県や奈良県の山間部で工事に従事した。「テレビ電波伝播を測定し、アンテナを建てて混合アンプを取り付けて各家庭へと同軸ケーブルを配線する仕事だった」と言う。

TV共聴の工事現場で。左に立っているのが荒川さん

1日では終わらないため現地に何日か泊りこむ工事だった。「アマチュア無線の知識が多少なりとも役立ったが、それよりも自宅でテレビが受像できることを喜んでくれる笑顔を見るのが楽しかった」と当時を偲んでいる。ただし、工事は気候を選んで行ったからいいが、その後のメンテナンスは大変だった。「積雪の厳寒の中で険しい山道を登っての作業もあった」らしい。

サービス部門から無線事業部の技術部門に移って、米国向けテレビの設計に従事したが、当時はRCA社製の製品がお手本であったし、同社の特許も使っていた。しばらくして、米国W社向けにテレビ受像機のOEM供給を手がけた。W社からは詳細な要求スペック(仕様書)が送られてきたが「それがわからない。技術者の誰も知らない。交渉と称した問い合わせなども含めて随分勉強した」と言う。

次いで、東南アジア地域向けのテレビ受像機の設計を手がけることになった。東南アジア各国でもテレビ放送が始まり、同社も受像機を輸出するためであった。面倒だったのは香港向けの製品だった。英国の統治下であった香港は「有線放送とUHF放送のコンパチブル受信機が要請されており、日本にはないテレビ受像機を開発する苦労を味わった」と語る。