[東南アジア駐在] 

荒川さんが10年勤続で表彰された昭和42年(1967年)8月、初の海外赴任が始まった。最初の任地はタイのバンコック。東南アジア向けテレビ受像機を開発したこともあり、テレビ受像機を中心とした無線機器と家電商品などの技術担当としての駐在であった。他に電卓などの情報機器の技術担当駐在がもう1人いた。担当エリアはタイ、香港、マレーシア、シンガポール。

当時、香港に本社をもつロキシー社がシンガポール、マレーシアでも早川電機工業の代理店であった。荒川さんはこれら代理店と頻繁に情報交換を行いながら販売の支援に当たった。ちなみに、ロキシー社は現在でもシャープと合弁会社の形態で現地の販売会社となっているほか、いくつかの現地製造会社のパートナーでもある。

また昭和40年(1965年)前後は、南米、東南アジアなどの当時の発展途上国への電子工業の海外移転が始まった時期であった。シャープは荒川さんが赴任した当時、担当地域ではシンガポールとマレーシアにテレビ組み立の生産委託工場をもっていた。このような機器メーカーの海外シフトにともない電子部品メーカーも東南アジアでの生産を開始しつつあった。しかし、それでもまだ社員の海外赴任者は少なく、荒川さんは「早川電機を代表して現地で大いに活動しよう」との気概で日本を後にした。

香港でVS6AJを借りて運用する荒川さん

[香港へ] 

日本を出発する時には「現地でアマチュア無線ができるとは思ってはいなかったが、何人かのハムの方にはお目にかかりたい、という考えをもっていた」と言う。そのため、これまで交信した現地のハムのリスト、日本でのハム仲間である野瀬健三(JA3EGE)さんなどから教えてもらったリストを携えて旅立った。

バンコックの駐在員事務所を拠点としながら、必要に応じてエリア内で活動することになったが、最初はロキシー社の本社がある香港に滞在して、現地で販売されているテレビの修理技術指導に当たった。現地のハムと初めて接触できたのは仕事にも慣れ始めた2カ月ほどたったころだった。

野瀬さんに紹介された香港のハム数人に「一度お会いしたい」と手紙を出すと、まずボブ(VS6FX)さんから荒川さんの事務所に電話があり「シャックに遊びに来て」と誘いを受けた。「10年の知己のように迎えてくれたボブさんからHARTS(香港アマチュア無線送信協会)のメンバーを紹介していただき、次々と交流が広がった」と言う。協会の会合は毎月開かれていたが、メンバーは英国人、ニュージーランド人、セイロン(現スリランカ)人などで、中国人はいなかった。

[ゲストとして交信] 

荒川さんはこれらHARTSのメンバーのシャックを借りてしばしば交信した。香港の法律には「アマ無線の免許を得た者は他のアマ局を運用できる」とあり、それを根拠に多くの現地のハムのお世話になった。もちろん、荒川さんは2度免許申請にチャレンジした。

1度目は却下されたため、2度目にはシンガポールで免許をとり、その写しを添えて申請した。「住所、使用機器、国籍を知らせてくれたら免許を与える」とまでいわれたものの、国籍が日本とわかり再び許可されなかった。

理由は「日本と英国の間にアマチュア無線の相互運用協定が結ばれていない」ためであった。とりあえず荒川さんは現地のSWLナンバーをもらう。VS6-12814である。余談であるが、このころ香港で「JAデー」が設けられた。香港のハムはほとんどが英国か英国連邦の人達。「本国と交信したいが電波を出すと日本の局につかまってしまう。いっそ、日本局にサービスする日を作ってしまえ、と考え出された妙案だった」と荒川さんは解説してくれた。

当時マカオでただ一局のCR9AK、ピントさん

CR9AKから交信した荒川さん

[マカオからの最初の日本人] 

ポルトガル領、マカオは香港から当時の水中翼船でわずかに1時間の距離。ただし、その当時はハムはポルトガル人のF・マセド・ピント(CR9AK)さんのみ。HARTSのミーティングでマカオへのDXペディションが話題となった。しかし、一時的であっても免許がおりないことが分る。そこでピントさんのシャックを借りてゲストオペレーターとして運用することで話しがまとまった。1968年8月のことである。

当初は10名ほどが参加の予定であったが「英国の軍人など入国が許可されない人が多く、私を含めて4名となってしまった」と言う。交信は交信相手地域の時間とコンディションを考えて時間配分され、荒川さんは昼間にもっぱら日本局と交信することになった。全員での3日間の成果は3080局、うち日本が1390局だった。

荒川さんが香港に帰ると、早くもカードが届いており、しばらくすると郵便局から「POBoxに入りきれない。受け取りに来い」と10日間ほど毎日連絡があった。この膨大なカードを発行し終わるまで「数カ月もかかってしまいましたし、送り洩れが何件かあったことが、後日分ったが何分ログがピントさん宅にあり、どうしようもない」と荒川さんは申し訳なさそうだ。

[再び単独マカオへ] 

1年後、荒川さんの帰国の日が近づいていたが、多くの日本局から「もう一度マカオから出て欲しい」と要望を受ける。8月30―31日、再びピントさんのお世話になることにして単独でマカオに乗り込んだ。睡眠時間3時間、時間に追われながら780局と交信し、そのうち90%は日本局が占めた。

偶然であったが、JARL初の「小笠原DXペディション」が行われたのが、29日から31日であった。荒川さんはそのJD1YABとも交信に成功している。この時、大作業となるカードの発行は黒川晃(JA1AG)さんが引き受けたが、その後も黒川さんは荒川さんの日本におけるマネージャー役をしばしば買っている。

二回目のマカオペディション時に使ったカード