[タイでの活躍] 

荒川さんは東南アジアの担当地域を頻繁に行き来した。1968年4月、5回目のバンコック入りの時初めてタイのハムとのつながりができた。香港で紹介してもらったHS1CB、チャンキッジさんを知り、タイのアマチュア無線の状況が分り出した。そのころ、タイ政府は「将来ともにアマチュア無線は認可しない」と決めていたが、それを取り締まる法律がない。

バンコックで初めて会ったハム、HS1CBチャンキジさん

ハムとなる唯一の方法はアマチュア無線クラブSTAR(タイアマチュア無線協会)のメンバーとなることであり、同国に長期滞在する証明書と年会費を払えば会員になれる。その上で、CWと技術の筆記試験があり、それにパスするとコールサインがもらえる仕組みだった。荒川さんの場合は試験が無かったが「日本での免許があることと、その場での運用の姿をみてもらっていることからだろう」と推定している。

日本のかつての郵政省に当たる同国のGPOは、それを黙認しており、荒川さんはSTARからHS1TAのコールサインをもらい開局する。「STARのメンバーは数十人であるが、タイ人は数人で後はアメリカ人だった。数年前に日本人メンバーがいたが、その当時は私がただ一人の日本人メンバーだった」と言う。

[1年4カ月の運用] 

開局のために無線機が必要になるが、正式にアマチュア無線を認めていないために輸入は難しい。そこでメンバーのシャックから運用を続けていたが、翌年2月に友人に依頼していた無線機が届く。「どうやら、日本の米軍基地に持ちこみ、タイへと送ってもらいタイの米軍から受けとったらしい」と荒川さんは推測している。開局後、荒川さんは休みを利用してタイ国内のペディションに出かけたりした。

荒川さんは他の担当地域に出かけて戻るなど、結局タイには16回も入国を繰り返し、延べにして7カ月滞在した。1969年8月に荒川さんが同国を離れるころには、政府がアマチュア無線を認める発表をしており、それにともないSTARが発行していたコールサインは無効になった。

HS1TAのコールで電波を出せるようになった

HS1TA局のカード、すでにシンガポールのコールもある

[シンガポール免許] 

代理店ロキシー社の工場があるシンガポールに荒川さんは7回ほど出掛け、延べにして3カ月ほど滞在した。1969年2月、ここで荒川さんは初めて正式な免許を取得することになる。コールサインは9V1PJ。日本人では第1号であった。当時の免許資格について荒川さんは記録を残しているが、35年も前の話しでありここで触れても意味がなさそうだ。

ただし、荒川さんの場合は「日本のパスポートの写し、日本大使館で英訳証明してもらった日本の無線従事者免許証と無線局免許状で免許をもらえたらしい。シンガポールでの運用は延べにして31日間であり、その間に7、14、21、28MHzで交信して55カ国、421局にカードを発行している。

[マレーシア] 

シンガポールとマレーシアの国境は、幅1.2Kmのジョホールバル海峡で隔たっているだけである。荒川さんはマレーシア・クアラルンプール郊外にあるロキシー社の工場への用事もあり、この国にも7回出入りした。1968年10月に知り合った現地のナラ(9M2LN)さんの助けを借りて免許を申請した。申請は11月末であったが、おりたのは翌年の6月23日。コールサインは9M2BL。

ここでも荒川さんは何人ものハムと交流し、それぞれのシャックから電波を出した。なかには太平洋戦争中に日本軍の通信士であったというインド人もいた。コールサインをもらった荒川さんであったが、帰国が2カ月後に迫っており「つらい思いで担当部門に免許の返納に出かけたところ、次ぎからは2カ月くらいで免許出来るだろう」と慰められている。

[パキスタン] 

1969年5月、パキスタン・カラチにあるシャープの代理店MECO社のテレビ組み立て工場に技術指導に出かけた荒川さんは3週間滞在した。そのカラチでも何人かのハムと知り合い、シャックを借りて交信。「日本の局3局と交信できたが、戒厳令下のパキスタンで長く日本語をしゃべっていてトラブルが起きては、と早々に切り上げた」と言う。

[現地レポート] 

荒川さんはこの東南アジアに赴任中、現地のハムや自らの交信振りを日本のアマチュア雑誌紙上でこまめに報告している。当時は海外から電波を出す日本人ハムは少ないため、このレポートは人気があった。それを見ていると、担当地域を必要に応じて回る多忙な生活であったことがわかる。

レポートだけを見ていると、あたかもペディションのために東南アジアに出かけたのではないか、と思ってしまうほどの活動振りである。しかし、2年間の任期中、荒川さんは業務も立派にこなしたことを強調しておきたい。

先にも触れているが、現地で活動した荒川さんの「QSLマネージャー」役をしばしば黒川さんが務めた。まったくのボランティアであり、その苦労も大変なものであった。ある時、黒川さんは雑誌に海外ハムと日本人ハムの違いを書いている。「海外ハムからのほとんどのカードにはマネージャーをねぎらうお礼の手紙が添えられている」と。

帰国後、荒川さんはマネージャーをお願いした黒川さん(左)を訪ねた

ところが、日本のハムから届いた「139通中、なにか一言挨拶らしいメモが入っていたのは22通のみだった」と記している。なかにはSASE(返信用封筒)が入っていないものや、入っていても上書きがないものもあった。「なかに入っているたった一枚のメモがどれだけマネージャーを力づけるか」と、嘆いている。