[結婚]

昭和44年(1969年)2年間の東南アジア駐在を終えて帰国する。帰国後の所属は従来通りの第1技術部。翌年、結婚。相手の洋子さんを荒川さんは東南アジアに駐在する前に社内の「茶道班」でかすかに知っていた。むしろ、親しくなったのは駐在中だった。茶道の先生は荒川さん宛ての航空便の宛名書きを洋子さんに依頼することがたびたびあった。

帰国後交際が始まったが、洋子さんは荒川さんの趣味であるアマチュア無線へののめり込みぶりを知ってびっくりした。しかし、何事にも熱心で挑戦意欲をもつ荒川さんに次第に引かれていく。この年、日本の経済復興を世界にPRした「万博」が大阪で開催された。JARLはサンフランシスコ館の一部を借りて記念局(JA3XPO)を設けることができた。まだ、ハム仲間との人脈が十分でなかった荒川さんは「帰国後の多忙さで記念局の準備や運用の手伝いはできなかった」と言う。

昭和45年当時の荒川さんのシャック

しかし、開局後すぐに記念局を訪ねて運用している。当然デートを兼ねてであり、洋子さんも一緒であった。結婚後の新居を奈良県の大和郡山市に設けて転居。土地の選択は荒川さんらしかった。「ある時、ハンディ機を持って生駒山山頂に登った。西の大阪方面を見るとスモックで霞んでいる。反対側の奈良県側を振りかえるときれいに澄んでいる。大阪に住むのは健康に良くない、と判断した」からだった。

移転してほどなくすると大和郡山の産業機器事業本部に転勤となり、生産が拡大しつつあった電卓(電子式卓上計算機)の第3検査課長に就任する。大和郡山工場は昭和35年(1960年)にラジオやテレビ用の電子部品製造のために設立されたが、荒川さんが赴任したころは電卓生産も始まっていた。アナログ技術の代表であったテレビ受像機からデジタル技術のはしりでもあった電卓部門への異動であった。

[電卓検査課長] 

シャープの電卓の歴史は世界の電卓の歴史でもある。そのころの産業機器事業本部は、電子工学では世界的に知られている佐々木正さんが本部長。電卓の開発を行った浅田篤さん、鷲塚諌さんらが重要な職位にあった。「とにかく錚々たる方々がおられる職場であった」と荒川さんは言う。同社の電卓開発は昭和35年(1960年)に本社内の研究室で始まったコンピューターの開発が原点である。開発は結果的に卓上に乗る小型の計算機、電卓の商品化に絞られた。

その成果は昭和39年(1964年)に発売された「コンペット」である。第1号は事務机の4分の1を占めるほどの大きさであり、10キー(0から9までの押しボタンスイッチ)が10列並んでいた。その後、電卓はトランジスターからIC、そしてLSIを採用するようになり、キーも10キーのみとなる。荒川さんが赴任した時は外部からLSIの供給を受けており、商品の歩留まりは悪かった。

このため「当初は検査員が100名もおり、その後自社製のLSIの採用が始まり、最後には検査は不要になるまでに歩留まりは上昇した」と荒川さんは当時を語る。数字表示部には蛍光表示管が使用されていたが、液晶に代わり薄型化、軽量化、低消費電力化が進むが、爆発的な需要拡大に対応して競合メーカーが増加し始めた。

[電卓戦争] 

電卓は世界市場を日本企業が独占することになった。このため、かつてのトランジスターラジオのように大手電機メーカーはもちろん、中堅メーカーも生産に乗り出した。専用LSIと数字表示板、キースイッチを組み合せればできあがり、簡単に参入できるからである。当然激しい価格競争になり、6桁/8桁の数字表示の電卓は新製品ごとに価格が下落していった。

最後に残ったのがシャープとカシオ計算機であり、ある時期には毎日のように価格の安い商品が登場した。この様子は「電卓戦争」といわれ、電機業界の歴史の中でも大きな出来事の一つである。シャープは最終的には部品の投入から組み立て、梱包までをほぼ自動化したラインを作り上げるなど、この戦争に勝ちぬく。が、それは荒川さんが他部門に異動した後である。

[奈良でのアマチュア無線活動] 

昭和49年(1974年)荒川さんは大阪市・平野区にある商品信頼性本部に異動する。通勤は国鉄・関西線(現JR大和路線)1本であり、都合は良かった。ここでの業務はシャープの全商品の商品テストである。落下試験、耐温度試験を始め、あらゆる使用状態を考えて、それに耐えられるか、故障しないかの試験を繰り返し、製品を製造する事業部に製造許可を与える職場である。

この大和郡山時代にもアマチュア無線活動は活発だった。JARL奈良県支部に所属したのは当然であるが、SEANET、CHC(ザ・サーティフィケート・ハンターズ・クラブ)などの国際的な団体のほか、地元でNDXA(奈良DXアソシエーション)の立ち上げにも参加した。これらのクラブの集りのたびに出かけるため休日にも家にいる時は少ない。それでも仕事から帰るとマイクの前に座る。

昭和45年に奈良で開かれたJARL総会で、荒川さんは「東南アジアのハムを訪ねて」の写真を展示した

[海外からの訪問者] 

東南アジア駐在時代に現地で知り合ったハムが訪ねてくることも多かった。万博の見学がてらのハムも少なくなかった。海外からの来客があると当時、大阪・天王寺にあったJARL関西支部(現在は関西地方本部)事務所に案内し、また、関西支部の支部長や役員にも紹介した。これらのハム仲間は気持ち良く奈良や京都の観光案内も引き受けてくれた。このような交流から荒川さんはJARLの要職にあるハムとの交流を深めている。

ボブ(HS1BD)さん夫妻も訪ねてきた。関西支部事務所前で、右端が荒川さん、その左が当時の関西支部長の辻村民之(JA3AV)さん