[SEANET] 

荒川さんがSEANETに参加するようになったのは、香港で仕事をするようになった昭和42、3年(1967,68年)ころである。帰国後もSEANETでの交信を楽しく続けている。昭和50年(1975年)JARL信越支部長、信越地方本部長として活動した桑沢和夫(JA0IA)さんが「香港・マカオの旅」を企画した。この時は香港で開催されるIARU(国際アマチュア無線連盟)REG-3(第3地域)会議を支援する目的もあったが、荒川さんも加わった。

SEANETの初期のころはパディ(4S7PB)さんが交信のコントローラーを務めた

荒川さんはこの時、かつて親しくなったハムを小人数で訪ねたりした。香港では新潟の小林勇(JA0AD)さんを誘い、旧知のドレーク(VS6EK)さんを訪ねた。先にも触れたが日本のハム局が増加したために東南アジア地域でも混信が激しくなったことが話題となった。ドレークさんは「それならSEANETに参加したらいかがか」と提案した。それがきっかけで小林さんも後に熱心なSEANETのメンバーとなる。

SEANETは1964年ころに発足したネットワークであり、国を超えて医療支援が必要な事態、交通障害などの非常時の連絡網づくりが目的であった。毎日UTC(世界協定時刻)12時(日本時間21時)に14.320MHzで交信、さらに毎年各国もち回りでコンベンションが開かれている。

[今年は大阪で開催] 

一昨年(2004年)の第32回コンベンションは11月にタイのバンコクで開催され、日本から約20名が参加した。この席で、荒川さんは2006年の第34回を大阪で開催することをスライドを使って提案説明し了承された。昨年(2005年)は、日本開催に勝ったインドのバンガロールで開かれており、日本は2度目の提案であった。

大阪での開催は今年(2006年)9月14日―17日、会場は大阪・天王寺区の大阪国際交流センター。日本での開催は始めてである。なお、荒川さんは第7回コンベンションに参加して以来、その後の米国や英国駐在期間を除いて、昨年のインドでのコンベンションを含め、全てのコンベンションに参加してきた。一方、毎年8月に開かれるJARLのハムフェアでは小林さんらの手でSEANETのブースも設けられている。

昭和50年に行われた「VS6/CR9ツアー」マカオでの記念撮影

[CHC/JAG] 

もう一つのグループであるCHC(サティフィケート ハンターズ クラブ)に加わったのも古い。荒川さんは「昭和42年(1967年)にCHC日本支部が発足したころだったと思う。海外赴任をする前だったことを記憶している」と言う。CHCは1960年に米国のクリフ・エバンス(K6BX)さんが創設したもので、世界のアワードハンターが続々と入会したという。

日本支部はチャプター41の登録となり「アクティブな活動で世界の注目を集めるようになった」と当時のことを小林信夫(JA1EL)さんが、後に「JAG20年のあゆみ」に書いている。しかし、CHC本部は所在地のカリフォルニア州にできたIARS(国際アマチュア無線協会)の傘下に入ったことから変質する。

このため、ドイツのメンバーが脱会、次いでソ連の会員もやめてしまった。さらに、日本支部では一部で組織乗っ取りの動きが表面化、日本支部を解散し新たに日本独自の組織であるJAG(日本アワードハンターズグループ)を作ることになった。その中心となったのが久安敏男(JA3NCZ)さん、稲毛章(JA5MG)さん、宍戸功芳(JA4JBZ)さんと小林さんであった。

JAGの発足は昭和52年(1977年)であり、入会資格はJARL会員であることと、一定の条件を満たしているアワードを30枚以上持っていることである。その後、会員は1000名を超えている。JAGに関しては、同じ連載の中の「四国のハム達。稲毛さんとその歴史」にやや詳しく書いている。また、JAG創立10年、20年の節目にそれぞれ記念誌が発刊されている。

[北京との交信を受信] 

実は荒川さんは昭和53年(1978)年に米国へと赴任することになるため、この時は日本に9年間住んだことになる。が、その間にもさまざまなことに挑戦している。自宅には大阪・東住吉の旧住まいから移設した10mのタワーを建てた。勤務やアマチュア無線のイベント参加の合間を縫って運用も手を抜いていなかった。

当時のログ(交信記録)を見ながら「毎日平均すると5、6局と交信してますね」と言う。その中にBY1AAとBY1ABの受信記録がある。昭和46年(1971年)6月29日である。「BY1AAさんがマレーシアの局と中国語で交信しているのを受信し、すぐに呼びかけたが届かなかった」と残念そうだ。しばらくすると「BY1AAさんはBY1ABさんとしゃべり出したが、呼びかけても応答は無かった」と言う。

それでも、受信レポートを送ったが返事が無く「再び送ったが届いていなかったようだ」と当時のことを語る。SEANETではかつて現地で接触したハム達と交信して、懐かしさをたびたび味わっている。南極の昭和基地との交信もあった。

昭和51年(1976年)には「香港・マカオの旅」の2回目が実施された。現地のアマチュア無線の情勢に詳しいこともあり、今回は幹事役だった。マカオではペディションでお世話になった懐かしいF・マセド・ピントさんを訪ねようとしたが「事前に連絡する間が無く、突然大勢の日本人がバスで押しかけたため、メイドが門を閉じてしまい、会うことができなかった」と言う。

ハムフェアでのSEANETブース、右が小林さん。平成17年