[SSTVを知る] 

荒川さんは交信だけでは物足りず新しい通信技術にも取り組んだ。帰国早々にSSTV(スロースキャンテレビジョン)の免許を申請した。日本ではSSTVは許可されていないため、当然のことながら免許はされなかった。荒川さんがSSTVに興味をもったのはタイ国に駐在していた時、バンコクでモニターに映された画面を見たからだった。

1971年に自作したSSTVモニター

昭和44年(1969年)の夏に、現地でハムのミーティングが開かれた。その席で会ったドン(W4CCG)さんの胸のポケットにTVのテストパターンが描かれているQSLカードが入っているのに荒川さんは気づいた。「たずねるとSSTVをやっている、と答えたので早速シャックを訪ねた」と言う。

タイではSSTVは許可されていないばかりでなく、アマチュア無線機の国外からの持ち込みが許されていないことはすでに書いている。しかし、アメリカ大使館勤務の技師であるドンさんは、自由に持ち込めたようだった。ドンさんのシャックで荒川さんはオーディオテープに録画された画像をモニターに再生してもらった。

[SSTV無線機自作] 

「結局、ドンさんはアジアではQRVすることなくやがて帰国した」と言う。興味をもった荒川さんはSSTVについて調べる。「SSTVはもともと画像による海外交信を目的に考案された方式で、HF帯で送信でき、通常のオーディオテープに録画できるのが特徴」であることがわかった。テレビ受像機を熟知している荒川さんだけに理解は早かった。

走査線はテレビ放送の525本に対して120本。送信占有帯域幅はSSB(シングルサイドバンド)で2.8kHz。1枚の画像を作る時間は8秒。このため、ブラウン管は残光性のある物が必要になる。帰国後、荒川さんは無線雑誌の記事と、ドンさんに紹介してもらったテッド(W4UMF)さんの指導を受けながら自作を始める。

自作に当たっては「真空管など国内で入手できる部品を使用できるよう、米国の無線雑誌QSTに紹介されていたマクドナルド(WA2BCW)さんの回路を一部変更した」と言う。完成した成果は昭和46年10月号の雑誌「Hamライフ」に発表された。国内には1局もSSTV局は無いため、米国からの受信をねらった。

[SSTV免許] 

当時、モニターの完成品または完全キットとして米国ロボット・リサーチ社の物が紹介されていたが、荒川さんは米国E.K.Y.Video Vision社のプリント基板を取り寄せて組み立てた。「画像はテッドがオーディオテープに録画して送ってくれたものを利用した」といい、翌年6月に開催された「関西ハムコンベンション」で、その画像を使っての実演を行っている。SSTVを知らないハムも多く、ましては画像を見た人はほとんどいなかったため人気を集めた。

1972年、SSTVモニターのあるシャック。後方は洋子夫人

昭和48年(1973年)4月、ようやくSSTVが免許される。荒川さんを含む24局に対してである。占有周波数帯幅はHF帯・SSB方式では3KHz、FM方式では40KHz、430MHz・FM方式では30KHzと指定され、電波形式はいずれもF5だった。荒川さんはほどなくしてラオスからの画像を受信するなど、国内外での交信に成功している。

[RTTY] 

RTTY(ラジオテレタイプ)にも荒川さんは挑戦した。テレタイプライターをモデム(ターミナルユニット)を使って無線機と接続、相手先には文字として交信できるもので、とくに別の免許が必要なわけではない。荒川さんが始めたのは昭和50年(1975年)ころである。米国製の中古のプロ用テレタイプライターを友達から譲ってもらい、速度を変えるギアを米国から取り寄せて使った。

この時、どういうわけか東京に住んでいた田母上栄(JA1ATF)さんの教えを受けている。田母上さんは北海道で生まれた戦前の著名なハムであり、東京に出てきた後、満州にわたっている。このため、コールサインは戦前J7CG、MX3H、J2PSをもったこともある。

[田母上さん] 

田母上さんについてわずかながら触れると、昭和7年3月の函館大火では、当時は許されていなかった非常通信で、東京の警視庁や埼玉県庁と連絡した。満州には松下電器の研究所設立にともない出かけたが、現地に「満州アマチュア無線連盟」を設立するために奔走している。戦後もJARLの活動に積極的に協力した。

田母上さんは大正4年生まれであり、荒川さんは「手紙でRTTYの教えを受けた」というが、昭和50年のころは60歳であり、まだまだアマチュア無線の第一戦で活躍していた。しかし、平成6年4月にサイレントキー(死去)となられた。田母上さんについては、別の連載である「北海道のハム達。原さんとその歴史」に詳しく書かれている。

[香港のSWLカード利用] 

荒川さんは、国内外との交信、新しいモードの技術を取り入れた自作に取り組む一方、奈良県や関西エリアの関係あるミーティングやイベントに参加。その活動が評価されてJARLの評議員に選ばれ、奈良県支部大会の開催などにも協力し、また、各地で開かれたJARLの全国大会などにも出かけている。

国内から送ったVS6-12814/JAのSWLカード

この大和郡山時代で触れておきたいことがある。荒川さんは受信ができるが、交信できなかった場合には香港時代に英国のISWL(The International Short Wave League)から与えられたSWLナンバーを使い、受信カードを送った。VS6-12814の後にJAを付けたが、住所が日本であり、JAのコールの他、これまで受けた東南アジアのコールも印刷したカードである。

恐らく、それまで日本のハムが国内から海外のSWLナンバーによるカードを送った例は無いと言えそうだ。受け取ったハムは首を傾けたであろう。荒川さんらしい効果的な演出でもあった。荒川さんは「そのSWLナンバーで送ったカードは3百枚程度だったと思う」と、当時を語っている。