昭和53年(1978年)勤務先のシャープから再び海外行きを命じられる。今度は米国SEC(シャープ・エレクトロニクス・コーポレーション)への出向であった。荒川さんは「また、いつか海外赴任となる可能性がある」と思っていたため、発令から出発までの約1カ月間を淡々としかし、慌ただしく送る。社内の関連部門との打ち合わせはもちろん、アマチュア関係ではJARL評議員を辞退するなど、他の担当も後事を託した。

SECは本社がニュージャージー州にあり、出向した荒川さんはその家電サービス部の責任者となった。家電品の修理サービスは主に販売店やサービス代行店が行うが、その教育、指導や、補修部品の供給などが業務であり社員は全米で約200名。すでに全米のサービス組織体制は整っていたが、カラーテレビの販売量が増え、やがて新たにVTRの販売が始まる時期であり、それなりに多忙であった。

「販売店やサービス代行店のカラーテレビ修理技術はほぼ十分なレベルに達していたが、VTRの修理技術を習得してもらうためには何度かの講習会が必要だった」と荒川さんは当時を語る。そのため、まず,サービス社員,次いで販売店やサービス代行店に地域ごとに集ってもらい講習会を始めたが、全米で実施するためには莫大な経費が必要になった。大阪の本社からは「カラーテレビの時はそうではなかった。VTRではどうしてか」と強く説明を求められた。

回答は簡単であった。「カラーテレビはすでにRCAやGEなどの米国メーカーが販売しており、販売店やサービス代行店は修理技術教育を受けていた。しかし、VTRは初めて日本メーカーが持ち込んだもの。最初から教えなければならない」と荒川さんは答えて納得してもらっている。日本と違う消費者気質もあったが、サービスマンのほとんどが現地の米国人。「彼らのやり方を受け入れれば良かった」と言う。

[米国コールを取得] 

日本をたったのは昭和53年(1978年)10月3日。赴任に当たって、ニューヨークに住む塚本葵(N2JA)さんを紹介してもらっていた。塚本さんは当時、JETRO(日本貿易振興機構)の職員であり、米国在住の日本人や現地のアマチュア無線に詳しいハムであった。荒川さんは塚本さんと連絡をとり「現地のアマチュア無線の状況を教えてもらうとともに、その後も何かとお世話になりました」と言う。

荒川さんは会社から約20km南に位置するローダイで家の2階を借りて住んだ。赴任は洋子夫人と一緒である。近くには米国の免許はもっていなかったが、多くのハム友達をもつ小林巌(JA1BMI後にN2ATF)さんがいた。米国企業に勤めているコンピューターエンジニアであった。1カ月ほどたったある日、近くのプレイボーイリゾート&カントリークラブでARRL(米アマチュア無線連盟)ハドソン支部のコンベンションが行われた。

ハドソン支部コンベンションでのFCC臨時試験場。荒川さんらも受験した

荒川さんは小林さんに連れられ出かけてみた。その会場でアマチュア無線の資格試験が行われているのを知り「何事も経験。受験してみよう」とテクニシャンクラスを受けて合格。早速申請して「N2ATT」のコールをもらう。さらに、荒川さんはこのコールサインのカーナンバーを申請し車に取り付ける。米国ではカーナンバーは一定の料金を支払えば重複していない限り好きなナンバーを選べることになっている。「しかも届いたナンバーを自分で取り替えても良いことに」荒川さんは驚いている。

[BARA入会] 

荒川さんと同時に受験した小林さんも「N2ATF」になった。小林さんの紹介で、地域のアマチュア無線クラブ「BARA(バーゲンカウンティ・アマチュア・ラジオ・アソシエーション)」に入会する。クラブの月例会、行事に参加するのにともない、徐々に人の輪が広がっていった。月例会では「日本と違う効率的な運営に接して勉強になった」と感心している。

「BARA」の月例ミーティング。まずは真剣に討議を行う

荒川さんによると「日本ではミーティングがあると、食べながら、飲みながら皆が勝手にしゃべっていつのまにか何かが決まる傾向がある。米国では議題に対してきちんと討論して結論を出す。その後にフリートーキングの時間となり食べたり飲んだりする。以前、日本のミーティングに参加した外国人ハムから”いつからミーティングが始まるのですか”と聞かれて面食らった」ことを荒川さんは思い出したと言う。

[JANETクラブ発足] 

1979年の12月、日本から戦前からのハムで知られている米田治雄(J2NG、JA1ANG)さんが出張でニューユークを訪ねたのを機会に、塚本さんの家にニューヨーク、ニュージャージーの日本人ハムが集った。10カ月前に米田さんが出張してきた時のミーティングで日本人ハムの定時交信「JANET」が生まれ、塚本さんが中心となって運営していた。12月のミーティングでは「実績もできたのでクラブを立ち上げよう、という話しが出てJANETクラブ」が発足した。

出張できた米田さん(右)と荒川さん。塚本さん宅で

現在JANETクラブには北米以外の在外日本人ハムも参加しており、会費も要らないクラブとして知られ、登録メンバーは300人ほどになっている」と荒川さんは説明する。後の話になるが、荒川さんが一時帰国した時「ハムファェア」にJANETブースを設ける話をまとめ、その後毎年ブースでのPRが行われている。

最初のブース出展は偶然であった。荒川さんがJARL事務所を訪問したおり、隣の部屋で「ハムフェア」の打合せが行われていた。荒川さんはふと気づいて「JANETのブースを出したい」と申し入れたが、すでにスペースは一杯。するとJLRS(ジャパン・レディス・ラジオ・ソサイァティ)の阿部芙美(JA1AEQ)さんが「私たちのブースの一部を使ってください」と提案してくれて実現した。

その後、荒川さんは米国に戻っても「ハムフェア」のブース展示用にさまざまな資料を送り、支援を続けた。ちなみにJANETは日本時間で毎日曜日午前7時、21.360MHzで交信が行われている。また、塚本さんや小林さんは、クラブの会員リストやクラブ報づくりを手がけてきた。