[クイーンメリー号] 

滞在1年を過ぎると、荒川さんの現地でのアマチュア無線活動も活発となる。荒川さんは米国内を仕事で駆け回ったが、その都度アマチュア無線と関係ある場所に極力出かけている。1980年春、ロサンゼルスに出掛けた折りには。ロングビーチに繋留されている「クイーンメリー号」を訪ねた。かつては世界最高の豪華客船といわれた同船は引退し、船内の設備がそのままホテルやレストランとして活用されていた。

当初の貸家での無線局

同船には、無線室とは別にアマチュアクラブの部屋があり、訪ねた当時もW6ROとして運用されていた。管理は地元の「ロングビーチアマチュア無線協会」が行っており、当然のことながら荒川さんはマイクを握った。「免許証を提示すれば訪問者にも運用させてくれるが、その時はコンディションが悪くJAとは2局のみの交信にとどまり、残念だった」と言う。

[バミューダ島] 

夏休みには近くの島にペディションに出かけた。この年はニューヨークから飛行機でわずか2時間で行けるVP9・バミューダ島に決めハム仲間に相談した結果、現地でシャックを借りるのが良策ということになり、VP9IB・トムさんに依頼して承諾を得る。1週間を運用、現地のハムとのアイボール、観光などに費やし、合計535局と交信し「そのうち500局余りが21MHzでのJA局だった」という。

バミューダ島は当時の人口5万4千人。荒川さんが訪れた前年の9月には石井威彦(JA1LAO)さんがここで運用しており、荒川さんは日本人で2番目となった。荒川さんは日本との交信で、懐かしい大阪の島伊三治(JA3AA)さんや奈良県のNDXAのクラブメンバーの声を聞くことができた。

[ようやくアンテナが] 

渡米に際し荒川さんは日本から無線機を持ち込み、借りた家の屋根にある煙突にバーチカルアンテナを括りつけるだけの設備で運用していた。本格的なアンテナを建てるためには家主の承諾が必要であり、話を持ち掛けるとアマチュア無線のことも、ましてはアンテナなどまったく知らない。そこで、荒川さんは女性である家主を車に乗せて近くのハムの家、何軒かを訪問し、アマチュア無線を理解してもらった。ハム仲間はもちろん、協力してくれて家主を説得、ようやくアンテナ建てが実現することになった。

簡易に設けた貸家屋根上のアンテナ

「最初は屋根の上に簡単なアンテナを上げようと考えていたが、安全を考えて大掛かりになってしまった」と荒川さん。庭に穴を掘りコンクリートで基礎を固め、ローター付きのタワーを建て4エレメントのアンテナを取り付けた。同軸ケーブル、ローター用コードの引き込みなどはプロに依頼したが、その他は日本と同様、会社の同僚や近くに住む日本人ハムが手伝ってくれた。それでも約3カ月かかってしまい、完成したのは10月5日だった。

荒川さんは「仮住まいのアメリカで、大きな穴を掘りコンクリートで基台を造るなど、自分自身でも思いきったことをしたと思った」と言う。その時の費用概算が記録として残されている。タワー320ドル、アンテナ230ドル、タワー基台225ドル、ローター140ドルなど合計1180ドルだった。同時にリニアアンプのキットを組みたてるとともに、VHF、UHF機を揃えた。

[BARAのイベント] 

荒川さんがメンバーとなっている「BARA」も時々イベントを企画し実施している。荒川さんが借家の庭にアンテナを完成させた1980年10月にはバーゲン・コミュニティ・カレッジの駐車場でフリーマーケットを開催した。参加料金はクラブメンバー以外でも車1台が3ドル。約50台の車が集まった。「売れれば良し、売れなくても良し、のんびりと多くの仲間に会い会話を楽しんでいるようでした」と、荒川さんは観察している。

同じ月の末、近くのレストランでクラブデナーが催された。希望者だけの会であったが家族を含めて約40名が参加した。「BARA」では定例ミーティングを行っているが「時にはこのように家族を含めた集りを実施しているのが日本との違い」と荒川さんは感心してしまった。

[NJDXA] 

その年の11月7日から3日間、2年に1度定期的に開かれるARRLのハドソン支部のコンベンションがニューヨーク州で行われ、荒川さんも出席した。同ハドソン支部にはニューヨーク市、ニューヨーク州東部、ニュージャージー州北部が属しており、アマチュア無線関連のメーカー、雑誌社、DXクラブがブースを設け、また、フリーマーケットが催され、さまざまなテーマでのセミナーも開かれた。

「深夜まで貸切のナイトクラブで、ショーや音楽を楽しんだ後、翌日の日曜日にはNJDXA(ノース・ジャージー・DXアソシエーション)のフォーラムがあり、覗いてみた」荒川さんは、その後のNJDXAの行事に参加するようになる。NJDXAは、200カントリー以上と交信したDXerの集りであり、また米国2エリアのQSLカードのビューローの役割を果たしていた。ARRLのビューローは国外宛てのQSLカードのみ扱っていた。

その当時「毎月国内外から送られてくるカードを40人のメンバーが仕分けして一軒ずつ届ける作業は大変な仕事だ、と聞いたが、ボランティアが普通に行われている米国の姿を改めて教えられた」という。感動した荒川さんはJARLにその実態をレポートしたところ、JARLからビデオ撮影して欲しい、と依頼されビデオテープを送ったこともあった。

そのメンバーのなかには、かつてシンガポールにいたハムもいて「私がシンガポールのコールサインを持っていたことを知り親しくしてくれ、他のメンバーとの交流も広がっていった」と言う。このため、メンバーでもない荒川さんと小林さんは毎月開かれている月例会の他、夏のバーベキュー、クリスマスのパーティーなどに招かれるようになり、米国のアマチュア無線の歴史に詳しいOT(オールド・タイマー)とも知り合うことになる。

米国での最初のQSLカード