[3年ぶりのYLRLコンペティション] 

1982年6月18日から3日間、バージニア州アーリントンでYLRL(ヤング・レディズ・ラジオ・リーグ)のコンベンションが開かれ、荒川さんは夫妻で出席した。前回フィラデルフィアで開かれて以来3年ぶりの開催であり、日本からは郷原憲一、望美(JA3SQM、SQN)さん夫妻が参加した。

YLRLコンベンションではバミューダ島でお世話になったエドナ(右)さんがご主人と出席していた。後ろは荒川さん

「この日はAAコンテストと重なり、4U1UNからの運用予定の日であったが、1年前からのお誘いだったため、AAコンテストはJANETメンバーに任せて参加した」と言う。もちろんコンベンション参加の主役は奥さんであり、荒川さんはお供であったが「約10カ国から256名の参加があり国際色豊かな集りだった」と当時の様子を語っている。

[米国西海岸] 

8月、シアトル、サンフランシスコ、ロサンゼルスを6日間訪問。シアトルではアイコムアメリカ勤務の箭野佳照(KC7YI、JH3HWL)さん、宮越啓三(DD5CY、JA1IRF)さんと会い、箭野さんのシャックから運用している。この時、ロバート・Y・半田(KE7GL)さんがブレーク「近くですからすぐ行きます、と訪ねてきてくれ、近くのバーで夜更けまで話しこんだ」記憶をよみがえらせている。

ロサンゼルスでは「ロンビック(菱形)・アンテナ」で海外でも知られるダン(W6AM)さんを訪ねている。ダンさんは巨大なアンテナ群をもつハムで、荒川さんが訪ねた時には24エーカー(約97000平米)の土地に9基のロンビック・アンテナが建っており「話には聞いていたが、その迫力に改めて驚かされた」と言う。シャックを借りて1時間余りで45局のJA局と交信した。ただ「アンテナリレーの接触が悪く、ミスマッチングによりリニアアンプのプロテクターがしばしば作動してしまった」らしい。

ダンさん夫妻(中央)を訪ねた荒川(左)さん

[QCWA/RCA入会] 

3年以上もの米国生活で荒川さんのハムライフはますます活発となる。JANET、BARAのメンバーとなり、NJDXAでは準メンバーとなって多忙なはずの荒川さんは、さらにQCWA(クォーター・センチュリー・ワイヤレス・アソシエーション)にも参加する。名称の通りアマチュア無線を25年以上続けているハムが入会条件で、海外にも支部をもっていたがメンバーのほとんどは米国のハムであった。

経験豊かなハムがメンバーだけに、ARRLの諮問機関的な役割ももつほど権威があった。入会した1982年は荒川さんにとっては「ハムになって25年ぎりぎりであった。会費を払うと生涯メンバーとなれる組織であり、未だにメンバーになっている」と言う。

加えて荒川さんはRCA(ラジオ・クラブ・アメリカ)とも接触し、イベントにも参加するようになった。この団体はFM電波形式を開発したアームストロングさんもメンバーであったこともある組織で、発足は「1909年であり、無線界では最も古いクラブといえる。本部はニューヨークにあり、学会のような集りだった」と言う。後に荒川さんはフェロー(グレードの高いメンバー)に推挙されている。

[ASQC・CQT合格] 

SECに出向してほどなくして荒川さんはSEC家電本部サービス担当部長に就任した。と同時にASQC(米国品質管理協会)のメンバーとなる。ASQCは製品の品質維持・向上、管理のための研究組織であり、そこで日本と比較して体系立てられている米国の品質管理の手法を学んでいる。荒川さんがアマチュア無線に没頭しているわけではなく、仕事の面でもチャレンジしていることを知ってもらうために以下記しておく。

ASQCのバンケット

荒川さんは、これまで紹介してきたように修理サービス、品質検査、商品信頼性テストなど品質管理部門勤務が長く、米国の品質管理手法に興味をもっていた。太平洋戦争後、日本の遅れていた品質管理を心配したGHQ(連合軍総司令部)は、米国からデミング博士、ジュラン博士らを招き、指導に当たらせている。このへんの事情は荒川さんは詳しい。

荒川さんによると「デミング博士は指導した先から得た講演料、コンサルタント料を寄託して”デミング賞”を設立するなど、ジュラン博士ともども日本企業の製品品質向上に多大な貢献をされた。その結果”安かろう・悪かろう”といわれていた日本製品が世界でも最良の品質を持つまでになり、やがて米国製品を追い越し出した」と解説する。

[日本に負けた米国に学ぶ] 

荒川さんの在米時代はまさにその転換期にあった。日本の電機メーカーは日本との競争に負けた米国のカラーテレビ事業などを買収し、結果的には成功させた。「同じ工場で同じ従業員を使いながら日本式経営が成功する図式は広がっていった。米国企業はデミング博士、ジュラン博士などが指導した品質管理が日本で根付き、逆に米国が立ち遅れたことに気づかされた時期だった」と荒川さんは言う。

日本に負けた米国は産業の中心を製造からIT(情報技術)や金融に移行させたが、一方では製造分野での品質管理強化に取り組み始める。「そのひとつが”マルコム・ボールドリッジ国家品質賞の制定”であり、再び日本企業が米国から学び始めた。荒川さんは1984年にASQC・CQT(サティファイド・クォリティー・テクニシャン)の資格を得る。しかし「資格もありがたかったが、さまざまな権威者に会うことが出来たのが大きなプラスとなった」と当時を振り返っている。

ニューヨークのホテルに西堀博士(右)を訪ねた

ASQCニュージャージー支部の月例会で講演を聞き、ジュラン博士の自宅を訪ねたこともあった。また、日本の品質管理の一人者で、多彩な活動で知られ当時京大の教授であった西堀栄三郎さんが米国を訪れた時にホテルを訪ねた。シャープの日本の各事業所で講演をされた西堀さんの話を、日本規格協会が単行本にして出版することになった。

その単行本の巻頭にジュラン博士の推薦文を寄稿していただくことになり「ご自宅を訪問したのはその目的でもあった」と言う。そのような関係もあって、本社が西堀さんの訪米を知らせてくれたためである。西堀さんは東芝勤務時代に真空管などの開発を手がけており、電子工学、原子力などにも詳しい方で「ヒマラヤ登山のためにアマチュア無線の免許を取得したことなど2時間ほども話しをうかがった」と言う。