[寸暇を惜しまず] 

とにかく、荒川さんの行動力はすさまじい。4月29日からブルックリンで開かれた「桜祭り」に参加して、日本文化の紹介を手伝い、5月1日にはBARAのフリーマーケットに出かけ、夜のミーティングに行く途中には地元のハムのシャックを訪ねている。21日にはバーゲンカウンティのボーイスカウト大会にBARAがクラブ局を設置して運用。

22日にはニュージャージーのモンテクレイアに行き、18世紀の米国の産業、生活の実演を見学。「開拓時代の文化がこのような形で保存されていて、見学者は後を断たないようだ」と感心している。その月末にはASQC主催でニューハンプシャー州のシーブルックに建設中の原子力発電所を見学。「建設現場を自由に見せてくれた」と驚いている。「国民の理解を得るため、建設途中の現場を公開して安全であることを説明するのに労を惜しんでいない」と感心している。

[モントリオール] 

アクティブな荒川さんの米国でのハム生活を逐次書き続けるとスペースがいくらあっても足りなくなる。今後は目立った行動に絞って紹介していきたい。7月4日の独立記念日の連休を利用して荒川夫妻はモントリオールまでの片道350マイル、約7時間のドライブに出かける。

モントリオールで運用したN2ATT/VE2のカード

米国の国境を越えると、マイル表示がメートル表示になり、英語がフランス語になるのに面食らいながらモービルで地元のハムに誘導されてモントリオール着。カナダでは市民権を持たないとハムの免許はもらえないが、米国とカナダとの協定によりその国のコールサインで運用が許されていた。この旅行で荒川さんは高部克彦(VE2FRF、JA1CBD)さんのシャックを訪問、N2ATT/VE2でHFを運用「ご夫妻にはいろいろとお世話になった」ことを記憶している。

[ヨーロッパ旅行] 

1983年の夏、荒川さんは夏休みの休暇を利用して夫妻でヨーロッパ旅行に出かけた。ニューヨークの日系旅行会社の企画に参加したものであるが、機中1泊の8泊10日で6カ国の旅。「アメリカ人なら6カ国回るのに1カ月程度かけるのが常識。限られた休暇であり、高い旅費を払っているので止むをえなかった」と荒川さんはその時のことを語る。

荒川さんは2mのハンディ機を持参していたが、ミュンヘンに近づくとレピーターを通して壱岐邦彦(DF2CW、JA7HM)さんと交信ができた。「ドイツでの運用許可証は壱岐さんを通して予め得ていたもので、ドイツではDL/JA3AERのコールで20局以上と交信できた」と言う。ミュンヘンでは荒川さんは団体と離れ壱岐さんに案内してもらった。

ドイツで運用したDL/JA3AERのカード

この時、荒川さんはおもしろい体験をしている。「英語がしゃべれないハムがいた一方で、日本語をしゃべるハムがいた」からである。しかし「強行軍のためドイツのみでの交信にとどまり、フランスでは全く応答が無く、さらにHF運用の機会はなかった」と言う。それでも旅行そのものは「見学する価値のある場所を厳しいスケジュールでバスで回ったため、効率のよい旅行となった」らしい。

[AMSAT入会] 

10月のBARAのミーティングにAMSAT(米アマチュア衛星通信協会)のロジャー(KW2U)さんが招かれ、アマチュア無線衛星オスカー10号についての話があり、実演が行われた。AMSATは1961年に世界で初めてオスカー1号を打ち上げ、その後次々と衛星を打ち上げていた。荒川さんは「当分、衛星通信の予定は無かった」が、ロジャーさんの勧めでAMSATに入会する。

ちなみに、日本のアマチュア無線衛星の打ち上げは遅かった。米国、ロシアが多くの衛星を打ち上げ、ドイツなども追随したため、JARLはドイツなどから「他国の衛星を使いながら日本は何の経費負担もしていない」と揶揄されたこともあった。このため、JARLはドイツが打ち上げた衛星には資金援助を行ったこともある。

結局、日本が自前の衛星を打ち上げたのは1985年になってからであり、JARLが募金活動を行い資金を作った。後に荒川さんもJARLのアマチュア無線衛星募金に応じている。この時、日本政府は「衛星は行政が打ち上げるもの。民間が打ち上げるなどとんでもない」との意見があったと言う。最近では大学が自前で打ち上げるなど日本の衛星事情も大きく変わってきた。

[ARRL・ビック会長の死] 

11月26日、荒川さんは国連クラブのマックスさんからの電話で信じられないことを知らされる。ARRLの会長であるビック死去の連絡であった。実は荒川さんはビックさんには1週間前に開かれたRCAのバンケットで会い、東京で開かれたWARIC(世界アマチュア無線国際会議)の様子などをうかがったばかりだった。

RCAのバンケットで表彰を受けたビックさん(右)。その1週間後に急逝された。

それ以上の驚きは「マックスさんから連絡のあった日の朝、24日付けの消印のあるビックさんからの手紙を受け取っていた」ことであった。亡くなったのは25日の夜、心臓麻痺であった。「ビックさんとはお互い、切手コレクションが趣味で切手交換をしたりしている仲だった。会長職で多忙のなかでもこまめに手紙を書かれる人だった」と荒川さんはその人柄を語ってくれた。