[AO-10通信] 

1985年2月26日、チャレンジしていたアマチュア無線衛星AO-10(オスカー10号)での通信に成功した。「米国ですでに衛星通信を手がけている日本人ハムの方々のご指導をいただいた。しかし、東の方向に丘があるため日本との交信が出来なかった」と残念そうであった。ところが、4月27日に初めて日本との交信に成功している。

AO-10経由の衛星通信でJAとの交信に使用したクロス八木アンテナと荒川さん

荒川さんは「東の丘のために無理とあきらめていたが、週末であったためアンテナを庭に移したことや、衛星の傾斜角が10度と低かったために実現できたのだろう」と分析。この時は草野忠廣(JH1GZV)さん、小林幹夫(JA1CKO)さんなど数名と繋がり、荒川さんは「ほっとするとともに感激した」と言う。

5月25日、ロサンゼルスのダンさん死去の報に接して荒川さんは衝撃を受けている。ロンビックアンテナで知られる世界的なDXerのダンさんとは「たびたびお会いし、ロサンゼルスに行く度にシャックを訪ねて、オン・エアさせてもらったこともある。最後にお会いしたのは1年前の4月だった」と寂しそうにダンさんを偲んでいる。

[ウォールドウイックへの移転] 

6月末から7月にかけて日本に一時帰国した荒川さんは、米国に戻った後8月末に移転する。米国赴任以来6年あまり住んでいた家の家主が家を手放すことになったためである。「アンテナなど大掛かりな工事をしていただけにおっくう。しかし、やむをえない」と覚悟をし家探しをする。当然、アマチュア無線のための立地条件も考慮し、同じ州のウォールドウイックに裏庭の広い家を物色して決めた。

亡くなったW6AMダンさんのQSLカード。荒川さんはしばしばシャツクで運用した

前の借家のアンテナとタワーを倒して運搬したが、新しい地域では「高さが15フィート(約4.5m)を超えるものは許可が必要ということで、タワーの設置は先になりそう。いろいろと多忙になりそう」と、行動力のある荒川さんも移転にともなう忙しさを訴えている。ただし、勤務先のSECには車で5分程度と近くなった。

タワーの建設は家主も了承してくれた。町の条例では申請とともに近隣住民の了解も必要。その町のハム仲間は「そんな質問をするからいけない。黙って建ててしまえばいい」というが、荒川さんは「ここは法治国家であり、ましては外国人の私がそんなことをしてはいけない。手続きをとることにした」と言う。

とりあえず、部屋の壁に2mの4エレ八木アンテナを取り付け「日頃、交信している日本人とはコンタクト出来るようにした」と言う。その後、7MHz用のダイポールアンテナを通風口と庭の木の枝に簡単に張り、7MHzにも出られるようになった。

[相互運用協定でFCCら申請] 

日米の相互運用協定にもとづく米国での申請をしたことは先に触れた。1985年9月のことである。荒川夫妻はともに日本の従事者免許と無線局免許のコピーを添えて申請。11月6日に届いた免許の有効期限は1986年11月4日までの1年間。奥さんの洋子さんは「電話級をベースに申請したにもかかわらず条件はついていなかった」と言う。

荒川さんはさっそく「JA3AER/W2」のコールサインで交信を始めた。同時に申請した他の日本人ハムにも一斉に許可が降りたため、服部(JG3STV/W2)さんと、運用協定で許可された同士の初交信をした。荒川さんは「これまで肩身の狭い思いをしてきた。これからはニューヨーク周辺でもJAのコールサインが飛び交うことになるだろう」と喜んでいる。

[国連創設40周年] 

国連創設40周年を記念して9月23日から1カ月の間に90カ国以上の元首が集ることになっているが、国連クラブ局もそれを記念して10月一杯、特別プリフィックス4U40UNで運用することになった。荒川さんは10月6日にこの特別プリフィックスで運用したが「コンディションが悪く米国国内だけの交信に終わった」らしい。

4U40UNを運用する荒川さん

この記念期間中は総会に集る要人のなかにもハムがいるのでは、と1階にも無線局を設置した。荒川さんは10月25、26日にも国連クラブでJANETメンバーとともに運用している。後日、荒川さんはこの時の記念アワードの200番までの発行リストを見て「JA局からの申請はわずか8局。地理的に不利であるがもう少し申請があると期待したのに」と落胆している。

[礼=レイさん] 

このころ、サンフランシスコに住むレイ(WA6IVM)さんから久しぶりに手紙が届く。「彼はサインに礼と書くほどの親日家であり、JARLなどの日本で発行しているアワードにも熱心」と荒川さんは言う。その当時、15000局のJA局と交信し、JCC(日本全市)は594、JCG(日本全郡)は298に達している。

4U40UNのQSLカード

手紙では「JCC600までにさらに頑張らなくてはならず、75歳で残る時間もわずか急がなければ」と書かれていた。荒川さんが大阪在住時代に始めたWANCアワードについてはすでに書いているが、この手紙では「20年前にそのアワードを入手した」とも触れている。荒川さんも「そういえば確か海外からの初めての申請がレイさんだった」と記憶している。

転宅して半年しかたっていない荒川さんであるが「いっそのこと適当な家を買おう」と決断する。「円高と公定歩合が下がっている今がチャンス」と考えて、物件探しを始める。毎月の返済額を考え、また、アンテナをを建てるロケーションの良い所なども考慮するとなかなか見つからなかった。