[親しいハムとの別れ] 

年末、再び悲しい出来事が起きた。かつて荒川さんが住んでいたローダイ時代、毎年のクリスマスイブには荒川さんは近くのピーター(WB2LAP)さん宅に招かれていた。この年は「招待を受けたものの、転宅して遠くなったことや仕事で疲れていたので丁重に断った」と言う。

ところが、クリスマスの翌日、ピーターさんが交通事故で亡くなったという連絡を受ける。荒川さんは「こんなことなら疲れていても、遠くても行くべきだった」と後悔し、28日に夫妻で告別式に出かけている。「毎年クリスマスイブに楽しく会っていたピーターさんの奥さんや親族の皆さんにこのような形で会うことになるとは」と悲しんでいる。

交通事故で亡くなったピーター・マンゾーさんの墓。下にはARRLのロゴとコールサインが刻まれている

[ラムジーに転宅] 

1986年、建設を進めていたSECの新社屋が完成し2月に移転となった。1980年代はシャープの海外事業展開が活発で、世界各地で製造や販売の現地会社の設立が始まっていた。米国ではすでに1979年にテキサス州メンフィスに製造会社SMCA(シャープ・マニファクチャリング・カンパニー・オブ・アメリカ)が発足しており、米国における巨大製造拠点が動き出していた。

SEC新社屋の移転先は同じニュージャージーのマーワーであるが、荒川さんも家を購入して移転する。新社屋とは車で5分ほどの隣町・ラムジーに約1,300平米(400坪)の庭付き家屋を購入した。2階に間借りした最初の住まいから、1度借家に転居し3度目の移転だった。米国では土地が安いこともあり、気軽に家を住み替えるが、荒川さんはそれでも「購入に際しては100軒ほど物色した」という。

完成間近なSECを前にした荒川さん

住み心地はもちろんであるが、アマチュア無線のロケーションを考慮するため、それだけ物件探しに時間がかかった。5月に移転したが新居は「前の住人が手入れをしていなかったので庭の木や芝の手入れが大変だった」と荒川さんは言う。アンテナは前の住居から移設したが、完成したのは11月23日であった。

[ハンドクロスアメリカ] 

5月25日、米国大陸の東海岸から西海岸までを住民が手をつないで結んでしまおう、とスケールの大きな試みが行われた。チャリティで国民500万人が参加し、集った参加費は家のない子供達や飢餓で苦しむ子供達の支援に回されたが、この時、この行事に協力したのが全米のハムだった。

川や山に立つことはできないため道路沿いに並ぶことになり、その距離は約7000km。全米のハム3500人以上が1マイル置きに配置され、144MHzで連絡役を果たした。荒川さん夫婦もBARAのメンバーとしてハンディ機を持って早朝から駆けつけ活動した。荒川さんが割り当てられたのは町中の交差点。

「オフィシャルスタッフ」とかかれた帽子を被り、始まるまではステッカーを貼ったり参加者の誘導をした。西部時間の正午、ラジオがカウントダウンを始め、交通も一時ストップとなり、全員が「ハンズ・アクロス・アメリカ」や「ウィ・アー・ザ・ワールド」を合唱。「皆の交信も興奮気味。本部から全員が手を繋いだとの連絡が入りほっとした」と、アメリカ国民の雄大な姿に感激している。

街角でのハンドクロスアメリカ。東と西がつながったと連絡を受け、両手を挙げて喜ぶ参加者

[千客万来] 

米国生活が長くなると荒川さんを訪ねるハムも増え始める。日本で発行されているアマチュア雑誌に連載で米国事情を掲載しているため、とくに日本からの来客が多い。ニューヨーク・マンハッタンからも近いニュージャージーに住んでおり、訪ねやすいこともあり、1カ月に数人が訪ねている。加えて気さくな荒川さんは米国人ハムとも行き来しており、人との応対だけでも多忙である。

6月、国連クラブ局からJANETのメンバーと「オールアジアDXコンテスト」に参加した後、ロングアイランドに来ているドレーク(VS6EK)さんを迎えに行っている。ドレークさんはHARTS(香港アマチュア無線クラブ)会長を務めたこともあり、荒川さんは香港駐在時代に何度もそのシャックを借りて運用したことがあった。

その後、1976年の香港ツアーの折りには新潟の小林さん(JA0AD)や荒川さんの奥さんとシャックを再訪したこともあったが、今回は10年ぶりの再会であった。ドレークさんは奥さんの病気治療のため日本や中国に出かけたこともあり「日本では多くのハムにお世話になった」と語っていた。

[日の丸アマチュア無線衛星] 

8月13日、遅ればせながら日本もアマチュア無線衛星「ふじ」を打ち上げた。8月25日、荒川さんは米国上空に飛んできた衛星の電波を捕まえようと挑戦する。庭にクロス八木アンテナを据えつけて試みる。「衛星から発射されているテレメトリー信号は受信できたが、その上の435.810~435.870の範囲でCW、SSBの弱い信号を確認したのにとどまった」と残念がっている。

アンテナは固定であるため衛星の追尾が出来ず、交信は上空にある10分程度に限られるため、荒川さんは「そのうちに144MHzのアップリング用送信機も完成させてアクセスしたい」としばらくはあきらめることになった。その後、親日ハムのレイ(W2RS)さんに会う機会があったが「8月14日にアクセスに成功した」と早くも成功した報告を聞かされている。