[ミラノで] 

荒川さんのハム活動は相変わらず多忙であるが、1987年10月、夫妻で10日間の欧州旅行に出かけた。ローマ、フローレンス、ミラノ、ジュネーブを回ったが、今回もアマチュア無線との関わりある旅である。ローマ、フローレンスではハムショップを訪問して、情報交換。ミラノではホテルに迎えに来てくれたマリオ(I2MQP)さんのシャツクを訪問。

マリオさんは日系企業に勤めており、米国のNJDXAのミーティングで顔見知りとなった間柄。近くに住むジョージオ(I1VXJ)さんが合流して楽しいひと時を過ごす。荒川さんはマリオさんを通してイタリアの免許を申請していたが届いていない。マリオさんは「当局は申請に問題ないので運用は差し支えないと言っている」と言う。

シャックを借りてN2ATT/I2でローカル局と挨拶の後、日本、北米、欧州の9局と交信「最後にDXペディションから帰ったばかりの秋山直樹(N1CIX/JH1VRQ)さんとおしゃべりを楽しんだ」と言う。翌日の夜は50km離れたベルガモから中田克巳(KE6RD/JE3AVS)さんが迎えに来てくれ、ベルガモで地方料理を堪能した。中田さんはJANETのメンバーである。

[4U1ITU運用] 

ミラノでは「折角の機会なのでARI(イタリア無線協会)を訪ねたが、英語のわかる職員がいなかったため、写真を撮っただけで失礼した」と残念そうだ。ジュネーブはミラノから列車で約4時間。荒川さんは2日間の滞在中にITU(国際電気通信連合)を4回訪ねている。IARC(国際アマチュア無線クラブ)発行の運用許可書を持参し、4U1ITUを運用する。

ジュネーブで4U1ITU局を運用する荒川さん

最初は欧州しか交信できなかったため、夜になって再び出かけJA局22局と交信。翌日も運用したがJA局とはつながらなかった。ただし「マレーシアの田中悦男(9M2AX/JA6FBQ)さんと交信できたのは幸い」と、喜んでいる。また「IARCのパコ(EA2ADO)会長とお会いできなかったのは残念だった」と言う。

[市瀬さんのニューヨーク公演] 

日本のハムにもさまざまな人がいる。市瀬俊秀(JA1RNH)さんは日本の劇団の演出を手がけているが、10月から11月にかけてニューヨークのラ・ママ劇場で「ザ・ガラシア」を公演した。戦国大名・細川忠興の夫人となった明知光秀の三女・玉をテーマとした作品であり、荒川さんら何人かの在米のハムも招待された。

ラ・ママ劇場で終演後に記念撮影。市瀬さん(右端)荒川さん(左端)

「市瀬さんの奥さんである坂東三津菊さんの他、坂東三津二郎さんらが出演し、日本舞踊、茶道、ジャズダンスなどを組み合わせたユニークな内容であり、なかなかの人気であった」と荒川さんは評している。終演後に出演者とハム仲間は記念撮影。米人ハムは多彩な日本人ハムに感心していたらしい。

[憲法制定200周年] 

この年は米国の憲法制定200周年の年であり、ARRLはそれを記念して各州都にあるクラブ局に「特別プリフィクス」を1週間単位で割り当てた。「州都以外の町でも可能性があるので申請を」とARRLが呼びかけていたため、荒川さんは自身のN2ATTをJANETクラブのクラブ局として申請していた。

この申請が認められ12月19日から25日まで、荒川さんのシャックはJANETクラブの特別局N200ATTとなった。JANETのメンバーが交代で運用したが「14MHz以外ではJA局はつながらなかった。結局、563局の交信中、JA局は110局にとどまった」という結果だった。

米国憲法制定200周年記念に、特別局N200ATTを運用するJANETメンバー。

[洋子夫人絵画入選] 

1987年の年末も例年と同様にさまざまな催しに参加したが、翌年は年明け早々にラスベガスで開かれたCESに数年振りに出かけ、ここでも米国や日本のハムとあい、旧交を暖めている。「近くまで来たので」と荒川さんはロサンゼルスまでドライブして、現地のハムを訪ねて、ニュージャージーに戻っている。

1月31日には奥さんの洋子さんが絵画展で入賞し、その表彰式が行われた。洋子夫人は地元の絵画教室RAI(リッジウッド・アート研究所)で絵を学んでいたが、展示会に出品した油絵2点が入選したのである。RAIの会長であるボブ・ドッキリーさんはN2ACTのコールをもつハム。「時々、あなたのN2ATTと間違われます」と荒川さんはいわれた。

[帰国の内示] 

相変わらず荒川さんは忙しく駆け回りハムライフを楽しんでいたが、それに終止符を打つ時がやってきた。所属しているBARAが25周年を迎え、4月のミーティングで、記念ロゴ入りのTシャツ、特別QSLカードを作成し、8月には特別局の公開運用を計画することになった。

N200ATTのQSLカード

ところが、それに参加できなくなった。しばらくすると荒川さんは8月に日本に帰国の内示を受け取る。その後、帰国の時期が仕事の都合で7月初旬に早まる。1978年の秋、米国の現地法人会社SECへ出向して約10年。荒川さんも洋子夫人も「まだアメリカに居たい」という願望をもっていたものの、企業人にとって帰国命令には背けない。