[米国滞在名残の活動] 

帰国を前に荒川さんがやらなければならないことは持ち家の処分。業者に依頼していたが帰国が近づいても容易に決まらなかった。ようやく買主が決まり、契約はできたものの、最終的な引継ぎは間に合わず業者に依頼して帰国することになった。アンテナは仲間のハムの力を借りて撤去。アンテナは国連クラブ局に寄贈、タワーは近くのハムに引き取ってもらった。

日本への帰国時期が近づく荒川さんであるが、帰国直前まで慌ただしい活動が続く。むしろ、短い滞在期間を惜しむかのようにさらに活動は活発となる。所属していたアマチュア無線クラブに別れの挨拶をし、何人かのシャックを訪ねた。大変だったのは荷造りであった。約10年間の滞米でいつのまにか荷物が増えていた。

荒川さんはラジオなどの無線機器を中心にアンテーク品を収集していたが、洋子夫人の趣味となった絵画関係の品物も多くなっていた。「荷物の半分以上が2人の趣味の関係物となった」と言う。日本への途中、SECの支社があるロサンゼルスに寄り、ついでにサンフランシスコに足を延ばして親しくなったハム仲間に挨拶をしている。日本着は昭和63年(1988年)7月9日。

[海外サービス部長] 

シャープ本社に復帰した荒川さんの肩書きは「海外サービス部長」。海外にある同社のサービス拠点の技術指導とともに、海外サービスの行政が担当であった。基本的には海外でも修理サービスは販売店の仕事であるが、それを管理指導するサービスマンは「世界に約1000名いたと思う。日本人は出向、駐在を含めてこのうち約100名。この巨大な世界のサービス体系を担当するのはサービス部の約20名。それだけに多忙であった」と当時を振りかえる。

「米国や欧州の大半の国ではサービス体系の組織、技術能力は整っていたが、その他の国では組織づくりも遅れていた」と言う。東南アジア、中近東、中国などが課題であったが、中でも急速に市場が拡大していた中国の体制を整備することが大きな仕事になった。荒川さんは「海外サービス部の社員の半分は海外経験がなく、海外を知らないことに驚いた」ため、まず順次海外出張させて現地の事情を知ってもらうことにした。

次いで、現地語の堪能な社員を採用して、現地との意志の疎通を図った。「それまで、現地からの手紙を外部に翻訳に出すなど言葉の問題に時間を割かれていたが、この社員採用は事務効率を飛躍的に高めることになった」と言う。各国の拠点の指導者を集めての会議を開催し、さらに荒川さん自身もしばしば現地に行き指導を始めた。

帰国をひかえてアンテナの撤去作業。

[移転] 

日本に帰国した荒川さんは、かつての住まいである奈良県の郡山市の自宅に落ち着いたが、荷物が増えたため「家が倉庫のようになってしまい、別に家を探さなければ」と考えていた。折り良く、海外から帰国して間のない友人が、大阪府の南部にある河内長野市に新しい住宅団地が造成中と知らせてくれた。「現地を見に行くとアマチュア無線のためのロケーションも良く、環境も良かったために購入することを決めた」と言う。

移転した河内長野市の自宅シャック。

ところが、購入希望が多く9倍の競争率。荒川さんはうまく抽籤に当たり帰国後3カ月ほどで移転することになった。「家が建たない前にアンテナを建ててしまったので近所とのトラブルが避けられた」と言う。しかし、仕事が多忙なためにあまりハム活動はできず、大阪市内にある「大阪国際交流センターラジオクラブ」や、地元の河内長野市の「アマチュア無線同好会」に加わる程度であった。

[JI3ZAG局] 

「大阪国際交流センター」は財団法人として昭和62年に設立され、元大阪外大の跡地に立派な建物・施設を持ち、民間主導の国際交流の場として利用されている。ラジオクラブも同様な主旨で設けられ、JI3ZAGのクラブ局はアジア、オセアニア地区のデジタル無線の中継局としても知られている。また、関西におけるアマチュア無線の国際的なイベント会場としても盛んに活用されている。

昨年(2005年)11月にはAPDXC(アジア・パシフィックDXコンベンション)が開かれ、今年の9月にはSEANETコンベンションが開催される予定である。さらに、海外からの留学生を対象とした「養成課程講習会」も開催され、その制度を利用してこれまでにハムとなった東南アジアの学生も多い。

国際交流センターラジオクラブの例会。日本で免許を取得した中国人留学生(前列中央と右端)

[訪中] 

平成元年(1989年)2月、約2週間の中国出張に出かけた荒川さんは、仕事で訪問した各地でシャックを借りての運用を行っている。事前に申請して許可を得たり、現地で許可を受けて北京、上海、福州の3カ所でJA局合計40局近くと交信。北京では中国無線電運動協会の副秘書で国家体委無線電運動学校校長の汪さんが親切に面倒をみてくれた。

当時の中国ではアマチュア無線局はすべてクラブ局であり、業余電台と呼ばれていた。北京の業余電台BY1PK、上海市業余電台BY4AA、福州市業余電台BY5RAでの運用では「現地のハムがいずれも丁寧に応対してくれた」と荒川さんは感激している。

荒川さんによると「このような中国の私達に対する応対は、それまで技術指導や通信機の寄贈などで、中国側と友好を結んでいた三好二郎(JA3UB)さんの紹介を得ていたためである」と言う。荒川さんは帰りに香港に立ち寄ったが「約20年前の香港駐在時代に知り合ったハムの多くは自国に帰ったり、海外に移民したりして、フィル(VS6CT)さんと電話ができただけで寂しかった」と言う。