[池田市でJARL総会] 

平成16年(2004年)5月。JARLの総会が例年開かれている「関西ハムフェスティバル」と同時に池田市の池田市民文化会館で開催された。JARL総会が関西で開かれたのは平成6年(1994年)の神戸大会以来10年ぶりであった。23日の総会には1200名が出席し、午後6時過ぎまで熱心な審議が続けられた。荒川さんは会場で「記念の郵便消印を入手した」と言う。

池田市で開かれた第46回JARL通常総会

この年8月に東京ビッグサイトで開かれた「ハムフェア」ではイベントの一つとして堀江謙一さんの冒険体験の講演が「新たなる挑戦」と題して行われた。堀江さんと荒川さんの関係についてはすでに触れているが、今回の講演に関しても荒川さんが主催者となったCQ出版社に堀江さんを紹介したことがきっかけであった。

[非常通信] 

8月29日には地元の河内長野市の防災訓練に参加するとともに、同日に開かれた「ファミリー電波教室」にも加わった。防災訓練は災害時に備えてのもので、当日は河内長野市市役所に設けられた基地局と避難所のハンディ機によるアマチュア無線での情報連絡を行ったもの。一方の「ファミリー電波教室」は、ガールスカウトの大阪第131団の団員を対象としたものであった。

9月12日には再び、河内長野市で災害時のテストが行われた。この日、河内長野市アマチュア無線連絡協議会は公開野外運用を企画、バーベキューを楽しみながらの行事であった。この日には河内長野市が主催した「防災無線展」が開催されており、バーベキュー会場と展示会場との交信テストが実現している。

[SEANET誘致] 

「大阪国際交流センターラジオクラブ」のメンバーの間で、SEANETコンベンションを日本でも開催したらどうかとの話しが出始めて久しかった。日本では1度も開かれたことがなく、2006年開催に立候補する案が煮詰まりつつあった。コンベンションの開催地は2年前のコンベンションで決定されるため、早急にどうアピールするかを決めなければならなかった。

その打合せが9月25日にあり、その打合せの後にJANETで活躍している佐竹(JA2SWH)さんの大阪への転勤にともなう歓迎会が行われた。その翌日には広島に移り住むことになったSCNETのメンバー吉房(JA4DPL)さんの送別会が開催された。

[再び堀江さんの見送り] 

10月1日、荒川さんは西宮市の新西宮ヨットハーバーに堀江(JR3JJE/MM)さんの出航を見送りに行く。今回は「サントリーマーメイド号」で単独の東回り無寄港世界1周が目的であった。堀江さんは約250日間かけて5万kmを航海して、翌年の6月に帰国したが、そのヨットは同ハーバーの入口付近に展示されている。

この月の8日-12日には韓国・ソウルで開かれたWW(ワールド・ワイド)YLミーティングに参加した。同ミーティングは不定期に開催されているものであるが、すでに世界のあちこちで開かれていた。かねがね韓国での開催が話題となっており、韓国で初めて実施された。このとき荒川さんは初めて韓国からゲストオペとしてDT04YL局から電波を出している。

ハムフェアで講演を終えた堀江謙一さんはJANET/JAIGのブースを訪れ、記念撮影の輪に加わった

[SEANET2004コンベンション] 

11月19日から3日間、タイのバンコックでSEANETコンベンションが開かれ、当然のことながら荒川さんは参加した。日本からは約20名が集ったが、最後の日に荒川さんはスライドを使ってのコンベンションの日本誘致の演説を行い、2006年の日本での開催が賛同を得て決定した。実は前年2003年のコンベンションでは日本はインドのバンガロールと争って負けているいきさつがあった。

SEANETコンベンションの開催が2年も前に決められるのは開催までの準備期間が必要なためであり、中心となって動く大阪国際交流センターラジオクラブのメンバーはその後、早速構想づくりを始める。荒川さんは「日本での開催に海外のメンバーは関心が高く、相当な人数になるのではとその時点で覚悟した」と言う。

バンコクのSEANETコンベンションで日本誘致のプレゼンテーションをする荒川さん

[日本の経営工学はこれでいいのか] 

荒川さんのハム生活はこの年、平成16年(2004年)も慌ただしく過ぎたが、荒川さんにとっては忘れられないことがあった。品質管理教育の面から世界の技術開発動向を見ていた荒川さんは「このままでは中国やインドはもちろん台頭してくる発展途上国に技術競争力で劣ってしまうのでは」という危機感をもっていた。

「何とかしなければ」と漠然と考えていた折りに、荒川さんにある話しが舞い込んできた。社団法人日本化学工業会人材育成センターと財団法人化学技術戦略推進機構が、経済産業省のバックアップを受けて、日本の若い技術者の育成計画を打ち出した。現在でもそうであるが半導体技術、生産分野では日本は巻き返しが必要な状態にあり、荒川さんの役割は半導体関係の技術者に「経営工学-品質マネジメント」を教育することであった。

荒川さんに白羽の矢が立ったのは、品質管理についての企業、教育の場での実績が評価されたものであり、中期的な構想を踏まえての念入りな準備の後、2004年12月から翌年の2月にかけてパイロット講義が開始された。化学会社は若い技術者を送りこんできた。「品質マネジメントの講義は6時間をかけた熱中したものであった」と荒川さんは語る。

横浜の国立大学サテライト教室で、経営工学の講義をする荒川さん

ところが、次ぎの講義の話しもなく、計画そのものが消えてしまった気配である。2005年8月、構想を白紙に戻すことが正式に決定した。「どうやら予算のメドが立たないことが原因らしい」ことが分った。「他の国では国や、業界、企業が技術者育成に力を入れている。せっかく立派な方針の下にスタートしたのに残念だった」と荒川さんは悔やんでいる。