[笹井さんとの出会い] 

笹井さんが生まれたのは和歌山市の紀三井寺のふもと。周囲に広い土地をもつ地主の家であった。現在もそこで暮らしているが、笹井さん宅を始めて訪ねた折りにちょっとした幸運があった。笹井さんとの電話ではJR和歌山駅からバスに乗り「紀三井寺」のバス停の前とお聞きし、アンテナが見えるだろうからすぐわかるものと早合点して出かけた。

ところが降りたバス停からは、アンテナが見えない。しばらく、周辺を歩いて探したもののそれらしいものが見つからなかった。約束の時間に遅れては失礼と思い、早めに現地に着き食事をする時間を見込んでいたため、まずは近くの食堂か軽食が食べられる喫茶店に入り、そこで笹井さん宅を聞くのが良策と思い、降りたバス停の向かい側にあった喫茶店に入ることにした。

ちょうど昼時であり、店内はほど良くお客が入っていたが、感じの良いお嬢さんが注文を取りにきてくれた。食事を終わり、笹井さんの住所と名前を言い教えを請うと「この裏です」という。「すぐ近くですので、これから伺います」と、笹井さんに電話をしたとたん、そのお嬢さんが「ここです」といわれる。一瞬、理解に苦しんだが「今日来客があり、ここでお会いすることになっています」といわれ、やっと理解できた。

お嬢さんは笹井さんのお孫さんであり、笹井さんの娘さんが経営している喫茶店を手伝っていることを知らされた。実はアンテナはその喫茶店の建物に隠れて見えなかったこともわかった。アンテナが見えないがためにすぐ前に笹井さん宅がありながら、あちこちで訪ね回る手間が省け、この偶然に感謝した。

[ラジオが届いた] 

お会いした笹井さんは「私などはハムとして何もしていませんよ」と切り出されたが、関西の戦前のハムにお会いしたこともあり、また、長年勤務された関西電力ではマイクロ回線の設営など、最先端の無線通信に携わってこられた。しかも、記憶は鮮明であり、戦後ほどなくのころに他のハムから聞いた磁気ヘッド材の名称まで正確に話してくれた。さらに、現在はパソコンを自由に駆使されておられ、先ほどのお嬢さんでさえ「旺盛な好奇心に脱帽します」と驚いている。

笹井さんが近くの名草小学校に入学した年、家にラジオが届いた。「真空管2本、スパイダー(クモの巣)コイルが3枚並んでおり、ダイヤルを回して調節する超再生式のものであった」と言う。アンテナ線を張り受信したが、その時、興味をもったのはその中身であった。しかし、まだラジオを自分で作ろうと思う年齢ではなかった。

小学校卒業の時の記念写真。上から3段目、左から4人目が笹井さん

名草小学校4年生のころ、市内に住む6歳年上の従兄の家に遊びに行き、電信機のおもちゃを見て、興味をもった。「ラジオは無理だがこれなら作れると思い、家に帰って受信機、送信機の構造を思い出して作ることにした。絹巻き線だけ買ってくれば後は自作できると考えた」笹井さんは、まず、模型屋で20銭で絹巻き線を買い求めた。「当時は1日1銭の小遣いが相場だった」と、当時の価値基準を笹井さんは教えてくれた。

「しばらくはこれで遊んでいたが、当時の電池はすぐに消耗してしまい、金がかかるためにすぐにやめてしまった。当時の子供達は山や原っぱでチャンバラごっこや戦争ごっこで遊んでいたので、最初は友達も電信機を物珍しいさに見に来ていたがその内に誰も寄り付かなくなってしまった。」

笹井さんがラジオに本格的に興味をもったのは、隣りに住んでいた1歳年上の友達の同級生である坂本正巳さんから「ラジオの作り方とその応用工作」の本を借りてからだった。笹井さんはその本の名前も、著者が齋藤健(戦前J2PU、戦後JA1AD)さんであることも調べることなく正確な記憶で話してくれた。坂本さんは2歳年上であり、和歌山工業に在学中であった。ただし、アマチュア無線に関しては笹井さんより遅く免許を取りJA3JCとなった。

自作電信機の図(当時を思い出して書かれた、笹井さん自筆の図)

昭和14年(1939年)笹井さんは旧制の県立海草中学(現向陽高校)に進学する。同中学は明治37年(1904年)に開校した県立海草農林学校が前身であり、昭和23年(1948年)には、学生改革により県立向陽高校になった。現在は中高一貫教育を実施しており優秀な生徒を育て、有力大学への進学生徒が多い。

海草中学一年生の写真