[ラジオ製作に取り組む] 

海草中学への通学は汽車だったが、乗り遅れると笹井さんは自転車で6キロの道を走った。その途中の時計屋にバリコンが陳列してあるのが目に入る。値段は1円40銭。欲しいが、決断できずにただ眺めるだけの時間が過ぎた。やがて、笹井さんは貯めていた小遣いで思い切って購入する。「やっと手に入った時はうれしくて、毎晩綿で包んで枕元に置いて寝た」ことを思い出すという。

海草中学3年生

次いで、紙の筒でできた鉱石検波器を買い、勉強用の下敷きを切ってスパイダーコイル用の芯に2重絹巻きの銅線を巻きコイルを作る。「当時はエナメル線がありませんでした」と笹井さんはいう。マグネチック型のヘッドホンも揃えた。L型の金具を作り検波器の端子にした。幸い、これらの部品は和歌山市内で揃えることができた。

鉱石ラジオづくりはあまり時間はかからなかった。しかし、ヘッドホンを耳に当てても何も聞こえない。「最初はアンテナの高さか、長さが足りないのではないかと張り直したりしたが、やはり駄目だった。ヘッドホンをいじり、マグネットと振動板との距離を縮めたところ、ようやく聞こえ出した。マグネットを駆動させるだけの出力が無かったことが後でわかった」と言う。

当時、ラジオ放送はNHKしかなく、和歌山は大阪放送局の電波を受信していた。あるいは笹井さんの住居である紀三井寺は鉱石でヘッドホンで聞ける限界距離だった可能性がある。その後、笹井さんは自作の鉱石ラジオで放送を聞くのを楽しみにしていたが「はっきり記憶に残っているのは翌14年(1939年)全国中等学校野球大会で海草中学が優勝した試合の放送を聞いたことだった」思い出である。

余談になるが、この当時の海草中学の野球は強かった。豪速球を投げる嶋投手の存在である。昭和13年は優勝校となった平安商業に負けているが、翌年は準々決勝までの5試合を完封勝ちし、準決勝はノーヒットノーランで勝ち、決勝も下関商業を5対0のノーヒットノーランで破ってしまった。さらに嶋投手が卒業した翌15年も静岡県の下田商業を2対1で破り優勝している。

[太平洋戦争 徹夜・徹夜の労働] 

笹井さんはいよいよラジオの製作に興味をもったが、昭和16年(1941年)12月8日に始まった太平洋戦争によって、その夢が壊される。戦前はラジオ放送の受信にも許可書が必要であり、短波の受信には「受信局」の免許が必要であった。したがって、戦前の「コールブック」には「電信局」「電話局」「電信・電話局」と並んで「受信局」の欄があり、住所、氏名、職業などが記載されている。

太平洋戦争開戦前にアマチュア無線の免許は停止され、開戦と同時に全ハムは原則として交信を禁じられた。「短波受信は一段と厳しくなり、ラジオに興味ある者はリストアップされていた。コイルを巻き直して外国放送を聞いていないか、公安当局は目を光らせていた」と笹井さんも当時を記憶している。ラジオ作りは難しい時代になっていた。

笹井さんは、卒業後兵庫県の「川西航空機」で働くことになる。「川西航空機」は、大正9年(1920年)に設立された「川西機械製作所」が母体であり、笹井さんが働いていた時は紫電改戦闘機などを生産していた。笹井さんは鳴尾工場に勤務、戦闘機用エンジンの艤装(ぎそう)の仕事に携わった。多忙時には「徹夜、徹夜の連続で2カ月間缶詰だった。が隠れて寝ることを覚えたと」と言う。

この工場で戦闘機に搭載する通信機を見た。「確か3号改2の名称で10MHz程度の周波数を使っていたと思う」と、記憶も鮮やかである。ただし「通信機は機密を重視しているためか、触ることも良く見ることもできなかった」らしい。事実、通信機は大事に扱われ、テスト飛行にも搭載せず、飛行機を現地に送る時になって初めて取りつけていたという。

「川西航空機」時代。右が笹井さん

[米国製輸送機が連絡用に使われていた] 

また、そこで不思議な光景を見る。米国製の輸送機ダグラスDC-3型機があり、鳴尾の飛行場から東京事務所などへの連絡用に飛んでいた自家用機だったという。「どう見てもDC-3を見習って日本で生産したものではなく、米国産であり、DC-3とアルファベットで呼ばれていた」と笹井さんは断言している。

鳴尾の工場では寮に帰っても暇な時きがあった。ラジオを作ろうかと考えてぼつぼつ部品を集め、コイルを作ったがバリコンが手に入らずにあきらめた。太平洋戦争も3年目になると資材不足で生産活動も落ちこんできていた。このころ日本は南太平洋地域で敗退を続け、戦況は悪化していた。笹井さんは「いつ召集があってもおかしくない」と覚悟していた。