[応召] 

そして、昭和20年(1945年)6月、笹井さんも応召となる。部隊は和歌山市内の中部第24部隊。配属されたのは笹井さん宅の近くに住んでいる准尉のいる中隊であった。すぐに准尉付になったため、古年兵からいじめられることもなく、半年が過ぎる。「ある日、事務所に来い」と言われ駆けつけると、その准尉から「部隊は外地に行くことになった。貴様の親父に意見を聞いたら、貴様を内地に残して欲しいといわれたので、残ってもらう」と言うことだった。

部隊は満州への出兵であった。すでに、満州を守っていた関東軍は南方の戦況悪化のため、次々にフイリピン方面に送られ、満州の守備は空白になってしまっていた。そこに「日ソ不可侵条約」を締結していたソ連軍が参戦し、ソ満国境を超えて満州に攻め込んで来た。このため内地(日本本土)の部隊が朝鮮(現在の韓国経由)で、満州に出兵することになった。ところが、米軍はすでに日本海にも潜水艦を派遣しており、日本―朝鮮の輸送ルートも危険な状態であった。事実、兵員を満載した輸送船は、対馬海峡で大部分が沈められた。

[終戦] 

昭和20年(1945年)8月15日、内地に残った笹井さんは終戦を迎えが、終戦処理のために部隊に残る。ほどなく大阪に進駐する米軍部隊(第33師団)が和歌の浦に上陸し、しばらく笹井さんのいた第22部隊跡地に駐留した。初めて米兵を見た笹井さんは「とにかく大きい身体に驚いた」という。終戦処理が終わり、2カ月ほどして家に戻ったが仕事が無い。やむなく農業組合の仕事を手伝っていた。

和歌の浦に上陸し、大阪に入った米軍(図説大阪府の歴史 --- 河出書房)

しばらくすると「近畿日本鉄道が社員募集をしている。大阪に出てこないか」という話しが舞い込む。遊んでいた笹井さんはその話しを受けて、近鉄本社の株式課に勤務する。昭和21年(1946年)4月のことであった。「株式のことなどわからなかったが、世話をしてくれた人が本社勤務を選んでくれたと思う」と笹井さんは今振り返っている。通常、国鉄(現在のJR)であろうと、私鉄であろうと新入社員は駅舎、プラットホームの掃除、切符切り(改札)から仕事を始めることになっていた。破格の待遇であった。

近畿日本鉄道は、明治39年に大阪と奈良を結ぶ「大阪電気軌道」が前身である。このころ、全国主要都市の周辺には無数の私鉄が誕生した。明治維新後、努力と才覚により資産を蓄えた事業家の多くが鉄道事業を有力事業とみて、参入したためである。その後、これらのローカルごとに分断されていた私鉄の統合が始まる。「大阪電気鉄道」は、次々に近畿、東海地区の私鉄を吸収、昭和16年(1941年)には東海地区の「関西急行電鉄」と合併し「関西急行鉄道」に社名を変更した。

さらに、太平洋戦争中は政府の業種別企業統合政策に基づき、昭和19年(1944年)大阪南部一帯や、和歌山までの路線をもつ「南海鉄道」と合併「近畿日本鉄道」となった。戦時中、米軍の爆撃により受けた鉄道の被害は甚大であった。「近畿日本鉄道」でも建物の焼失・全半壊は130棟、線路の損傷は15カ所、58km、通信路破損142km、車両の焼失・破損は264両に達した、と同社の社史は記録している。

戦後は、戦時中に受けた戦災の復興に多忙であったが、それが一段落すると戦前、戦中に統合を重ねた私鉄の分離にともなう株式の書替えなどの仕事が始まった。昭和22年(1947年)6月には「南海電気鉄道」が分離され、多忙であった。採用、即本社勤務の破格の待遇ではあったが「結構忙しかった」と、笹井さんは当時を語る。

近鉄本社は大阪市内天王寺区の上本町にあった。昼休みに近くの近鉄百貨店に3バンドのオールウェーブラジオを見つける。「これがあれば短波放送も聞ける。欲しいとは思ったが、買う資金が無く、店頭で聞くだけ」で笹井さんは我慢した。やがて、一緒に勤めていた和歌山から通勤の仲間達は「南海電気鉄道」の分離独立にともない、大阪・難波にある「南海電鉄」本社に転勤、笹井さんだけが残った。

戦前、戦後のラジオ。キャビネットも販売されており、自作でも見栄えは良かった

[転職 ラジオ製作] 

自宅から上本町までの通勤は時間もかかり苦痛であった。昭和23年(1948年)笹井さんは結婚したが、それを契機に勤務先が近い企業への転職を考えた。可能性があったのは、「花王石鹸」(現在の花王)和歌山工場か「関西配電」(現在の関西電力)和歌山営業所であった。5月笹井さんは関西配電に入社。最初は、家庭を回り使用した電力の検針、電力料金の集金であり、また、冬でも夏物野菜を栽培することを狙った農家の「農事電化」の啓蒙活動などが主な仕事であった。

やがて、仕事に慣れるのにともない、ラジオ受信機のことが気になり始めた。そのころ親しくなったのが関西配電の営業所近くにいた藪和男(後にJA3AL)さんだった。藪さんは盛んに5球スーパーラジオ受信機を作り販売して生計を立てていた。戦後しばらくの間は企業によるラジオ受信機生産は行われておらず、素人が必要な部品を買ってきては組立てて、欲しい人達に販売していた。

5級スーパーラジオ(但し中波の1バンド)