[日本橋の露天商] 

藪さんは部品を仕入れるために、しばしば大阪の日本橋にある電気店街に通っていた。いつの間にか笹井さんも同行するようになり、ラジオ受信機を作るようになった。「当時は2000円ぐらいで部品を仕入れ、組み立てると5000円ぐらいで売れた」と笹井さんは言う。当時の日本橋には戦後すぐに露天商が誕生、戸板の上に食料品以外のあらゆる商品が並べられていたという。

戸板の上の物は売られているものであり、それを買う人がいる意味では商品であるが、実際は中古品がほとんどであり、真空管や電子部品は復員してきた日本の元通信兵などが持ち込んできたものだった。また、生活に困った人達が家にあった物を売りにきたものも多く、玩具、工具、片方だけの靴、鍋のふた、などもあったという。

やがて、戸板の上には米軍兵士が持ち込む真空管や、電子部品が登場し、それがアマチュア無線機の絶好の部品になるのだが、それまではしばらく時間が必要であった。いずれにしても藪さんや笹井さんは、ここで部品を仕入れてはラジオ受信機を作り続けた。やがて、ハムになる多くの人が、全国各地で同じようなことをしていたのがこの時代である。しかし、自作ラジオ受信機販売を税務署が調査し始める。

笹井さんも和歌山税務署に呼び出された。これらの「素人ラジオ屋」さんは、自作して親戚、友人などのほか依頼された人に売っていたため、利益をほとんど取っていなかった。したがって、課税を免れている人が多い。一方、笹井さんは正論を主張して課税されなかった。当時は「製造物品税」があり、生産された物に課税されていた。笹井さんは「すでに課税されている部品を寄せ集めたもの。作られたラジオ受信機は課税対象にはならないはず」と主張し、課税されなかった。

各種真空管

[戦前ハムとの交流] 

藪さんは日本橋に出かけると、戦前のハムの集まりに参加することが多かった。笹井さんによると「場所がどこであったかはっきりしないが、近くに公園があり、そのベンチに座り雑談することが多かった」という。もちろん、正規の集まりではないが、草間貫吉(戦前J3CB)さん、塚村泰夫(同J3CW)さん、湯浅楠敬(同J3FJ)さん、櫻井一郎(同J3FZ)さんらの他、戦後にJA3AAとなった島伊三治さんらも加わることもあった。その人数は「多いときは15、6人にもなった」という。

この集まりでは「レベルの高い話題が多く、私は隅の方で黙って聞いていました」と、当時の様子を話してくれた。草間さんは、わが国のアマチュア無線の元祖のような方であり、梶井謙一(戦前J3CB)笠原功一(同J3DD)さんらと、アマチュア無線制度のなかった大正末ころに電波を発射、盛んに交信していた人であった。

戦前、塚村さんは大阪歯科医学専門学校時代に免許を取得し、歯科医となった。湯浅さんは大地主の家の生まれであり、免許条件を上回る出力をもつ自作機を見えないように隠し、規定内の自作機を表面に出して運用していた。また、櫻井さんは貿易商を営み豊かな生活をしていた。戦前に自家用車を持ち、車には無線機を積み、自宅には自動送信機を置き、伝播の測定実験を行ったりした。

戦前の草間さんのコールサインJXAXと湯浅さんのJ3FJのQSLカード

笹井さんが知り合った戦後には「櫻井さんは河内長野でチェリーという商標でトランスを製造していた。村で一番の金持ちとかで“村一さん”と呼ばれていた」記憶があるという。また、湯浅さんは日本橋でトランスのコアを製造していた。「藪さんはトランスを作るため、湯浅さんの所から目方でコアを買っていた」ことも思い出してくれた。ただ、公園がどこだったのか、雨の日はどうしたのかは思い出せないという。

これら戦前のハムの人達の戦前、戦後の活動については、昨年(2002年)に連載された「関西のハム達。島さんとその歴史」で触れている。戦後、再開されたJARLの関西支部長には塚村さんが就任しているが、その後、湯浅さん、櫻井さんもJARLの役員となり、戦後のアマチュア無線の発展に貢献している。公園のベンチでの会話では、技術的な話しも多かったろうが、アマチュア無線の再開を熱っぽく語っていたものと想像できる。

[宮井ブックの宮井さん] 

一方、和歌山ではやはり戦前のハムであった宮井宗一郎(戦前J3DE)さんと懇意になった。笹井さんの職場には戦時中に海軍、陸軍の通信兵や満州の「満州鉄道」で通信に携わっていた人がおり、笹井さんはモールス符号を教えてもらったりした。しかし、アマチュア無線についてはほとんど知らず、アマチュア無線がどんなものか、知りたかった藪さんと2人で宮井さんを訪ねた。

宮井さんは戦前に自費で「コールサインブック」を作り、印刷して全国のハムに送る活動をしていたことで全国のハムに知られている。現在のボランティア活動である。実家は和歌山市の繁華街ぶらくり町で書店を営み、同時に新聞の総取次ぎも行っていた。