宮井さん自身は大阪毎日新聞の電信課に勤務したこともあり、同新聞社の援助を受けるなどコールサインブックの発行をし易い立場にあった。宮井さんの活動については、先に触れた「関西のハム達。島さんとその歴史」に詳しく触れている。笹井さんは同じ市内に住む関係からか宮井さんに可愛がられた。宮井さんは「宮井ブック」の発行で有名になったため、ハム活動のことが知られていないが、研究熱心な人であったらしい。笹井さんによると「海外の短波放送を聞くと、そのテーマ音樂を五線符に写し取り、大正琴で再生したりしていた」と言う。

宮井宗一郎さん

また、当時、多くのハムが自作の送信機で苦労していた水晶発振子の製作では正確なカットや磨き方を伝授していた。水晶柱を空き缶の中に入れ、温めたピッチ(コールタール)を流し込む。固まった状態で取りだしピッチごとスライスし水晶片を作るのである。正確な周波数を刻ませるためにはカットの角度が重要であり、失敗しないための工夫であった。また、スライスするカッターには当時はアルマイトでできていたレコードの録音盤を使用、回転させながらカットしていた。

残念なことに、笹井さんが水晶発振子を必要とするころには「旧日本陸海軍のジャンクや米軍放出の製品がいくらでもあり自作する必要がなかったが、水晶を磨きすぎた場合の補正の仕方まで教えてくれた」と言う。当時のハムの中には磨きすぎて貴重な水晶を使えなくしてしまった人も多い。宮井さんは薄くハンダを塗ることにより補正できることも教えてくれた。今は販売されていないが傷の消毒用の赤チンを塗っても補正できることも知った。「赤チンには水銀が含まれているため効果があったのでしょう」と笹井さんは解説する。

[宮井学校] 

宮井さんの家の2階には、ラジオ少年やハム志望者が集まり、宮井さんの話を熱い気持ちをもって聞いた。笹井さんは「この宮井学校でアマチュア無線の基礎をじっくり勉強させてもらった。その後の無線通信の知識はここで学んだことがベースになった」と、“宮井先生”に今でも感謝している。

宮井さんは、また、テープレコーダー作りにも挑戦していたという。当時は録音媒体は磁気テープが無く、磁気を帯びたワイヤーであったが、いずれにしても磁気ヘッドが必要になる。宮井さんや草間さんはその磁気ヘッド作りに挑戦していた。「スーパーアロイやニッカロイを材料にして燒結する作業がある。焼入れをしたあと、灰の中に2日ぐらい入れておいて、ゆっくりと焼きなますと良い」と教えられた。

草間さんは戦後、当時の東京通信工業(現在のソニー)に入り、トランジスターラジオやテープレコーダーの開発に携わった。「宮井さんは草間さんからスーパーアロイやニッカロイの提供を受けていたようだ」と笹井さんは50年も前の日頃めったに口にすることのない化学材料まで記憶している。

現在では考えられないが、戦前や戦後しばらく間はラジオ少年の多くがこのようにして先輩から教えられた。先輩が後輩に教えるというこのような仕組みがなくなったのは、無線機をメーカーが市販するようになり、自作がなくなったのが大きな理由といえる。

[アマチュア無線の再開] 

もちろん、このような集まりのメンバーの中には容易に進まないアマチュア無線の再開を待ちきれずにアンカバーで電波を出した人もいた。和歌山に限らずハム志望者の気持ちはいらだっていた。そのような時に、アマチュア無線の再開が許され、近く国家試験が始まるという情報が伝わってきた。戦後に刊行されたアマチュア無線雑誌である「CQ ham radio」でもそれを伝えていた。

戦後第1回の試験は昭和26年(1951年)6月26日、27日に行われることが決まった。笹井さんは、第2級アマチュア無線技士試験に挑戦することにした。ところが、受験準備のための参考書がない。「電波法が試験範囲に入っているというものの、電波法がどんなものかわからない。さらに法規の問題には国際通信規約があるというが、初めて聞く言葉であった」という状態であった。

昭和27年9月8日付けの笹井さんの免許証(直前に電波管理委員から郵政省に変更になった)

この第1回の試験では、全国で1級に119名が申請し47名が合格した。2級には197名が申請し59名が合格した。関西では1級申請が38名、合格が18名、2級申請が26名、合格2名であった。試験問題には「水晶発振子のピアース(G-P)回路の配線がでた。「実際に実験していたのでこの問題はわかったが、合格は無理だった」と笹井さんは不合格にもあまり落胆した様子もなく話す。

[2級アマに合格] 

笹井さんは、翌27年(1952年)6月に行われた第2回目の試験で2級に合格する。免許証の発行は9月8日付けだった。戦後、日本はGHQ(連合国軍総司令部)に占領され、ようやく独立を認められたの昭和26年(1951年)9月のサンフランシスコ講和条約の調印、翌27年4月の条約発効からであった。アマチュア無線もその影響を受け、試験に合格し、免許証取得したにもかかわらず、それまで実際に電波を出す免許は与えられていなかった。