日本の独立を待って、戦後初の予備免許が下りたのは、昭和27年(1952年)7月29日であり、笹井さんが試験に合格したころであった。笹井さんは10月26日付けで無線局免許申請書を出したが「免許申請書は膨大な量であり大変な作業だった」と他のハムと同じ苦労を味わう。とにかく、現在では想像できない多くの事項の記入が必要であった。

笹井さんが提出した「無線局申請書」

「無線局申請書」は、一般業務無線局と同じでありいかに煩雑であったかは、いちいち書ききれないほどであるが、その1部だけあげてみると、無線設備の工事費は送信、受信、その他に分けて記入、運営にどれほどかかるかの経費は人件費、維持費、その他を記す必要があり、その経費を誰が負担するかまで書くことが要求された。さらに、複雑なのは「工事設計書」であった。

ラジオ放送局はNHKしかない時代であった。アマチュア無線局も、ラジオ放送局も同じ無線局であり、放送局免許申請書ほどではないにしても、詳細な表や図面、数値の記載が必要であった。笹井さんは既に予備免許を取得した先輩に教えられて申請するが、予備免許が下りたのは翌年の昭和28年(1953年)1月22日であった。コールサインはJA3BL。

予備免許は通常よりも遅れた。それには理由があった。申請書に電源系統図が抜けていたためであった。ある日、同じ和歌山市で免許申請していたMさんが近畿電波監理局に立ち寄ったところ「笹井さんの申請書に電源系統図が無いので追加提出するよう伝えて欲しい」と伝言を依頼された。Mさんは当時、大阪にある大学に通学しており、その帰りに電監に立ち寄ったのであるが、その伝言を笹井さんに伝えるのを忘れてしまった。

あわててその場で書いて提出した電気系統図

あまりにも、免許申請についての返事が無いため笹井さんも電監を訪ねた。当時のハム志望者は比較的親しげに電監を訪ねたりしており、全国各地でもでも同じようなものであった。免許者であり、不法電波を取り締まる電監ではあるが、免許を受けるためには接触が必要だったためである。いずれにしても、笹井さんはその時に書類の不備を知らされ「慌ててその場で紙をもらい、カーボン紙を借りて、電源系統図を書き提出した」という。「連絡が取れていたらあるいはコールサインはJA3A?になっていたのでは」と今苦笑している。

[開局] 

予備免許申請の後、笹井さんは送信機、受信機づくりに取り組む。この時も、JA3ALの藪さんがいろいろと指導してくれた。終段には当時の主流であった真空管807を使い、7MHz、出力10Wの送信機を組立て、アンテナは高さ13m、水平部7mの逆L型を張った。受信機は6球スーパーを作り上げた。「このころには米軍から流れた真空管、部品が多く、不自由した記憶は無い」と、笹井さんは語っている。

無線設備の工事落成期限を昭和28年(1953年)3月22日とした笹井さんは、とにかく送信機、受信機を作り上げ落成届を出した。ところが、近畿電波監理局からは新設検査の日の通知が無い。3月23日、笹井さんはいつも通り関西電力和歌山営業所で勤務していると、夕方になって自宅から電話があり「電波監理局の検査官が来られ、検査をするといわれたが留守だと申したらしばらく考えた後に、明日出直すといって帰られた」と告げられた。

またもや、電監から検査日を笹井さんに伝えるよう伝言された和歌山市のアマチュア局が笹井さんに伝えていなかったことがわかった。この日、やってきた検査官は翌日に予定していた加藤明利(JA3BY)さんの検査を行い、笹井さんの検査は翌24日になった。検査には藪さんが手伝いにきてくれ、さしたる問題もなく終了した。

さっそく笹井さんは試験電波を出し、藪さんや加藤さんに聞いてもらった。本免許は4月15日。最初の交信は藪さん、加藤さんの仲間内であったが、その後、北陸の円間毅一(当時JA2WA、現在JA9AA)さん、次いで中国の井原達郎(JA4AO)さんと交信した。
またもや、電監から検査日を笹井さんに伝えるよう伝言された和歌山市のアマチュア局が笹井さんに伝えていなかったことがわかった。この日、やってきた検査官は翌日に予定していた加藤明利(JA3BY)さんの検査を行い、笹井さんの検査は翌24日になった。検査には藪さんが手伝いにきてくれ、さしたる問題もなく終了した。

昭和28年4月15日、無線局の免許状が与えられた

[関電・新職場] 

一方、勤務していた関西配電は昭和26年(1951年)に関西電力に社名が変わり、戦争により壊滅的な打撃を受けた日本経済の復活、発展にともない事業が拡大していた。昭和30年ころからは発電―送電の制御や監視のために通信網の建設が始まりだした。当初は送電線の上に張られた「添架電話線」による有線電話が主に使われていたが、単純な通信しかできなかった。

その後、送電線に100kHz-450kHzの信号を重畳させたPLC(電力線搬送)が使われた。しかし、最新鋭発電所の建設にともない中央給電指令所との連絡やコンピューターの導入により、高速で、容量も多く、妨害も受けにくいマイクロウェーブ回線の必要性が高まってきた。無線通信とは無縁であった関西電力では社内で無線通信に詳しい人材探しを始めた。