笹井さんはアマチュア無線で培った無線技術知識を買われて、関西電力和歌山支店への転勤となる。計画では発電所から各支店、各営業所間を7000MHzのマイクロ回線で結ぶことになり、無線網づくりが始まった。電力会社は発電し、送電線で配電するだけの仕事と思われがちであるが、それをバックアップするための制御、情報網の充実が早急に要求されていた。

各発電所で発電された電力は、地域の電力事情により臨機応変に供給ルートを切り替え、電圧の安定を図る必要がある。地域によって異なる負荷に比例して電力を配分することは「負荷比例配分」と呼ばれているが、それは季節、月、曜日、時間帯、さらにはテレビの視聴率、工場の操業度などさまざまな要因で決まる。加えて、その比例配分ももっとも安価で発電できる発電所、送電線のもっともロスの少ないルートを選択する必要があった。

マイクロ回線用のパラボラアンテナと笹井さん

[マイクロウェーブ回路敷設] 

この作業は「経済負荷比例配分」と呼ばれ、これらのさまざまな条件を考慮して、瞬時に配電の比率を切り替えなければならなかった。なかでも最も重要なのは、交流電力の周波数である60Hzに発電所から送電されてくる電力の同期を合わせて切り替えることであった。「仮に同期が狂ってしまうと大きな事故につながるため、極めて慎重な仕事であった」と笹井さんは説明してくれた。

この同期合わせは現在はコンピューター制御であるが、かつては手動で行われていた。ベテランの制御技術者が、各発電所からの周波数波形の変化をにらんでいて、タイミングを計ってスイッチを切り替えていたという。「波形合わせは、合わせる相手の波形のほんの少し前に送りこむ送電の波形を合わせる形でスイッチを入れる必要があり、その職人の能力はすごかった」と笹井さんは今でも感心している。

マイクロウェーブ回線の設営はこれらの情報伝達や、コンピューター制御のために必要であり、笹井さんは無線の知識があることからその担当者に選ばれた。大阪府南部には多奈川火力発電所があり、当時は米国GE社の発電システムを採用した最新鋭の設備であった。また、水量の豊富な紀伊半島には水力発電所も多い。これらの発電拠点と大阪本社、和歌山県下の各営業所をマイクロ回線で結ぶことになっていた。

マイクロ回線では反射板も使用された

[7000MHzのマイクロ採用] 

わが国のマイクロウェーブの研究は戦前から行われており、将来の電話の普及に対応した多重電話方式への活用が目的であった。しかし、実用化は戦後になってからであり、NTTの前身でもある電気通信研究所が2600MHzの装置を購入して実験、やがて4000MHzでの送受信技術を確立していた。実際のマイクロ回線の敷設は、NTTが多重電話と始まりつつあったテレビジョン放送の映像伝送を目的に、昭和28年(1953年)から始められた。

テレビ映像は東京のキー局から地方局に送られ、それぞれの地域でテレビ受像機に送られる。このため、マイクロ回線は東京-名古屋-大阪を結ぶルートでまず計画された。このルートは翌年4月に完成、さらに、昭和31年(1956年)には大阪-広島-福岡のルートが出来上がるなど、順次全国各地に広がっていった。

テレビ映像伝送の他、NTT自身は、このマイクロ回線により、全国どこでも電話が即時につながる電話網の建設を「全国即時化」の掛け声で進めた。戦後の昭和20年代は、まだ電話を申し込んでつながるまで半日もかかる地域が少なくなかった。このマイクロ網の建設により、日本の電話事情は一気に世界のトップクラスになったという。

これらのマイクロ回線では4000MHzが使用されたが、関西電力はどういうわけか7000MHzの採用を決めた。「伝送容量を大きくするために7000MHzを選択したのでは」と笹井さんは推測している。方式には当初は米国の文献を翻訳してNECが製造した「時分割多重無線装置」を使用した。しかし、時分割は使い物にならず、その後は周波数分割方式に変更した。無線技術をもつ笹井さんの任務は重くなった。

[150MHz移動無線] 

笹井さんは、同時に業務連絡用の150MH帯の移動無線網も構築するため、その基地局づくりも手掛けた。基地局づくりにはジープに電界強度測定機などを積み込み、サービスエリア調査に走り回った。当時の移動無線機はトランジスターではなく、小型の真空管であるミニチュア管が使われ、受信部はダブルスーパーだった。出力25W、250Vに昇圧させるため電池の容量に問題があった。しかも、大きく重い機器だった。

携帯型の無線機はさらに小型のサブミニュチュア管を使用し、ヒーターには単一乾電池、B電源には67.5Vの積層乾電池2個を使っていたが「電池の消耗が早かったため、その補充も大変な仕事になった」と、当時を振り返っている。また、150MHzでは「シーソーレピーター」の実験も手掛けた。「ある無線機器メーカーと一緒になっての実験であったが、多分、わが国では最初の設備だったと思う」という。

150MHzの移動無線機は現在では考えられないほど大きかった