[日本初のシーソーレピーター] 

「シーソーレピーター」は、双方向自動中継装置といわれるもので、山岳地帯などの不感地域救済で利用されることが多い。図のように山などを隔てて、移動局と基地局が遮られた場合、それぞれの見通しとなる場所にアンテナを設け、それぞれ電波を受信し増幅した後に相手側アンテナに有線で伝送し、相手側アンテナから再送信する。同一周波数、同一偏波面で自動的に「再ふく射する中継器」であり、片方から片方に交互にやり取り出来ることから「シーソー」と呼ばれた。

シーソーレピーターの概念図

マイクロ回線の設営では、移動用パラボラアンテナを設営し、安定した電波の伝播が可能かどうかの仕事があった。伝播状態を子細に調査するためには、長期に現場に張り付く必要がある。現場は山奥であり車が通れる道路は無い。「発電用エンジンのガソリン、無線機用電池、生活用の水、食料を背負って運搬する」などしながら1カ月も山中でテント生活をしたこともある。

[アマチュア局を一時廃局] 

その一方で昭和34年(1959年)には現在の「第1級陸上特殊無線技士」である当時の「特殊無線技士(多重無線設備)」の資格を取得した。この資格は、当時も各種の無線通信技術資格の中でも極めて難しいものであった。しかし、多重無線で30MHz以上の設備を操作するためには必要な資格であり、笹井さんの今後の業務には不可欠なものであった。

残念なことに、家を離れることの多い多忙な生活は、アマチュア無線をあきらめさせた。この年、笹井さんは思いきってアマチュア無線の廃局届を出す。ただし「後年、再開するのでコールサインは残しておいて欲しい」と付記することを忘れなかった。

テントを張り中継局の伝播状態を調査した

マイクロ網建設の仕事は、昭和36年(1961年)ごろまで続いた。この間はアマチュア無線からは遠のいたが、笹井さんは「毎日無線通信の仕事に携わることができ楽しかった。給料と宿泊費をもらいながら恵まれていると感じた」と言う。当時、マイクロウェーブは無線の最先端技術でもあり「非常に勉強になった」と、今でも喜んでいる。

「非常に勉強になった」のは、無線通信技術の習得だけではなかった。笹井さんは、山中の集落の人達と親しくなり、山菜の取り方や料理の仕方なども教えてもらった。「豆腐の作り方を知っている人は多いが、こんにゃくの作り方まで覚えた。また、わさびが自生しているのを見つけて採ったこともある」と、自然の中の生活も楽しんだ。

マイクロ回線網設営が終了すると、次ぎの仕事も無線関係であった。「ロボット雨量計」の設置である。水力発電のためのダムでは増水による災害を防ぐために、予め上流の降る雨量を観測し、ダム管理の事務所に連絡する無人の設備で「テレメーター」とも呼ばれ、これも当時は最先端の技術であった。ダムの上流3、4カ所に設置した雨量計のデータは当然、無線で伝送される。

「ロボット雨量計」の設置に走り回っていた笹井さん

[再び異動] 

昭和41年(1966年)職場は送電線の保守に替わる。海南保線区を振り出しに、金屋保線所に務め、昭和47年(1972年)には和歌山通信所に転勤、再び通信の業務に携わる。和歌山県全県の通信網の管理が主要業務であり、次いで昭和50年(1975年)に和歌山支店通信担当に就任。4年後の昭和54年(1979年)には関西計器工業に出向。

関西計器工業は、昭和26年(1951年)に関西電力の出資で設立され、電力量計、メーター類の製造からスタートした。現在は受変電設備などの設計、施工、保守点検などの「電力部門」情報伝送、光端末装置などの通信設備の施工、保守を行なう「通信部門」そして、計器の修理、取替工事、検定などを担当する「計器部門」の3事業をもつ。結局、笹井さんは関西計器工業に平成4年(1992年)まで勤めてサラリーマン生活に終止符を打つ。

送電線の保守のためにパトロール車で巡回する笹井さん

[アマチュア無線再開] 

ここで再びアマチュア無線に話しを戻す。昭和42年、送電線保守に仕事が替わり、業務に慣れたのを機会に笹井さんは再びアマチュア無線を始める。8年ぶりの復活であった。依頼していた通りコールサインは元のJA3BLが交付されたが、昭和33年(1958年)にあった電波法の改正の結果、笹井さんの資格は「電話級アマチュア無線技士」となってしまっていた。旧2級は、5年以内に1分間45文字のモールス試験に合格すれば、新2級になれたはずであった。

笹井さんが再び、アマチュア無線に取り組み始めた時には、既に自作の時代は終わっていた。単身赴任の有田で、笹井さんは手始めに144MHzの無線機を購入したが「有田の山奥からも九州や山口とも交信でき、かつての自作時代と異なりその威力に驚いた」と、無線機技術の進歩にびっくりしたと言う。