単身赴任から自宅通勤の職場に変わった後、しばらくは自宅からの勤務に落ち着きそうだと判断した笹井さんは、自宅にタワーを建てた。幸い、鉄塔は保線の業務に携わっていたこともあり、廃棄された物を手に入れることができた。もちろん、正規の処分価格での入手である。アンテナはまずミニマルチを取り付けた。タワー建設やアンテナ取り付けには、ハム仲間や仕事で知り合った人達が手伝ってくれた。ただし、笹井さんはDXにもアワードにもとりたてて興味をもつことは無かった。ただ、会話を楽しんだ。

無線機の自作はしなかったが、安定化電源は自作した。「無線機はトランジスターの時代になっており、取り組む自信が無かった」からである。それでも、久しぶりにはんだごてを握る時間は充実していた。タワーを建てた場所は現在の自宅からやや離れた場所にあった旧家屋の庭であった。

昭和61年(1986年)笹井さんはJARL和歌山支部長に就任する。それ以前に既に副支部長の立場にあったが推されて支部長に選ばれた。その後、7期14年間の支部長となったが「それほど長く勤めることになるとは思わなかった」という。退任したのは平成12年(2000年)である。

[ADRF活動] 

わが国のアマチュア無線は無線局数から見ると、バブル経済時代にかけて増加を続け、平成7年前後がピークであった。笹井さんの支部長時代であり、それなりに多忙であった。しばらくして、笹井さんはJARL本部のARDF(アマチュア無線方向探知競技)委員会の委員に就任し、審判員養成の講師にもなっている。

ARDFは、日本のFOXハンティングに似たような競技であり、早くから世界各国でも行われてきた。IARU(国際アマチュア無線連盟)主催の「世界選手権大会」が2年に1度開かれている。また、IARUの第3地域(アジア・オセアニア)主催の「リージョン3選手権大会」もあり、同じく2年に1度開催される。

国内ARDFの全国規模の競技は、「日本「FOXテーリング協会」が主催して、昭和62年(1987年)に静岡県の朝霧高原で開かれ、中国、韓国の選手も加わり、259名の選手が参加。このころは「FOXテーリング全国大会」と呼ばれていた。平成元年(1989年)からはJARLが引き継いで開催し、埼玉県・西武遊園地で行われた。さらに、平成2年(1990年)からは、国際的な名称が採り入れられ「ARDF全国競技大会」に改められた。

90年ARDF全国競技会では笹井さんは大奮闘した。右から5人目が笹井さん

この90年の大会は10月14日、兵庫県のグリーンピア三木で開催され、135名が参加した。この中には初参加のソ連チームのほか中国、韓国の海外3チームの姿も見られた。この大会の実行委員長は有坂芳雄(JA1HQG)さんであったが、有坂さんが遠隔地のため出席できず、笹井さんが実行委員長代行として計画・設営を含めて指揮した。

この大会でも、外国勢が圧倒的な実力を見せ、JN、YL、OM、OTクラスともにソ連、中国が優勝を含む上位を独占した。笹井さんはこの時を振り返り「競技の運営も大変であったが、それ以上に海外の選手のホテルの利用の仕方、競技での行動がたびたびトラブルを引き起こし、生活習慣の違いはこれほどまでに大きいのかと知らされた」という。

余談であるが、現在JARLのARDF委員会委員長は、北海道地方本部長の原恒夫(JA8ATG)さんであるが、海外勢に勝てない理由を「日本選手の高齢化、練習不足にある」と指摘する。このため「高校生の参加を促すとともに、楽しくできる仕組みを作っていきたい」という。一方、笹井さんは現在でも審判員の教育に携わっており、講師としても活躍している。

[世界リゾート博] 

平成6年(1994年)は、和歌山支部長である笹井さんにとって大きなイベントに取り組んだ年であった。和歌山県が地方博覧会「世界リゾート博」を企画し、それに合わせてJARL和歌山支部が特別局を開設することになったからである。バブル経済時代、全国各地で「地方博」と呼ばれる催しが盛んに企画され、昭和63年(1988年)から、平成7年(1995年)頃にかけて、毎年数県のカ所で「地方博」が開かれた。

平成6年は既にバブル経済が崩壊した後であったが、和歌山県はその前年に開港した関西国際空港と、徐々に路線が広がりつつあった県内高速道路の利用促進、産業誘致、観光PRなどを目的に「世界リゾート博」を企画し、市内毛見の和歌山マリーナシティを会場に7月16日から9月25日までの期間の開催を決めた。

「世界リゾート博」は1994年に開かれた。特別局のカード

博覧会のメインテーマを「21世紀のリゾート体験」サブタイトルは「世界に開かれたリゾート」「自然との対話に満ちたリゾート」「心のふれあうリゾート」に制定、運営主体として「世界リゾート博協会」を設立した。JARL和歌山支部が、この計画を知って特別局の設置を決めたのは、開催1年前の前年夏ごろであった。

特別局での開会式。立っている右から2人目が笹井さん