明石での高校生活は環境に恵まれていた。パーツ類を購入しやすい交通の便が良くなったのもそうであるが、近くの岩岡に短波監視を行なう電波監視所があった。当時は、UHFやVHFの監視は大阪の阿倍野で行われていた。その岩岡の監視所におられた郵政省の方と交信し、また、遊びに行ったりして親しくなった。

高校時代は放送クラブ(ABC=明石高校放送クラブ)に所属し、アマチュア無線に熱中した。青春時代の楽しかった頃でもある。一番後ろが長谷川さん。

初めてスペアナ(スペクトラム・アナライザー=周波数分析器)を見せてもらったり、あらゆる電波監視の仕組みを教えてもらった。「現在は電波監視は集中監視に変わり大規模なアンテナや大きな施設はなくなりましたが、電波資源を守るためにさまざまな努力が続けられていることを身をもって知ることができたことは、その後の"アマチュア無線生活"の上で、大事な体験でした。」と、長谷川さんはその頃を振り返る。その監視所のあった場所には現在は総務省の関西通信研究所が設置されている。

また、通信機や真空管を製造している工場も明石にあった。そこにもベテランハムがたくさんおられ、「独身寮に入居している社員の方と親しくなり、良く遊びに行き、いろいろなことを教えてもらった。この工場も現在は、他の商品製造に変わってしまいまして・・・。」と残念そうだ。この人たちの中には神奈川県の川崎に転勤になった人もおられ、最近でも「ハムフェアの会場で声をかけられまして、非常に懐かしい人にお会いしたりします。その人たちも定年になられる人が多くさびしいですね」という。

この「明石工場については思い出がある。」という。規格に合わない真空管は不良品として廃品回収業者に回される。これらの真空管のなかには、規格以下の製品もあれば規格を上回っているためにハネられた製品もある。ハムにとっては、規格を上回る送信管を使いこなすことなどは簡単である。仲間のハムが廃棄真空管があるのを見つけてきて、ただ同然の安い値段で買ってきた。話を聞き、大勢の仲間が買いに行くようになった。「業者の方は最初はその売れ行きに驚いていましたが、その訳を知ると値段を徐々に上げ始めましてね。」と、当時の思い出を語る。

長谷川さんはCW(モールス・電信)符号を1分間に和文で百数十字打てる能力を持っている。通常は60字も打てれば十分であるのに対し、倍以上の能力である。それにかかわる逸話がいくつかある。昭和42、43年(1967、1968年)、20才のころである。ある時、CWで交信をしていると相手がスピードを上げてくる。それに応じて、長谷川さんもスピードを上げて対応すると、さらに、先方もスピードを上げ、また、長谷川さんもスピードを上げて応えた。

翌日、藤井さんといわれる方が長谷川さん宅を尋ねてきた。藤井さんは「あなたのキーの打ち方は逓信省型ですか?」と聞く。藤井さんは当時の近畿電波監理局で試験官を経験した方であることがわかりびっくり。藤井さんによれば「あれほど早く打てる方はあまりいない。逓信省は係官にキー操作を講習しており、その受講者ではないかとと思い、尋ねてきた。」といわれた。

長谷川さんらCW仲間は「さみだれ会」というグループを作り、お互いに早打ちを楽しんでいた。すると、時には「もう少しゆっくりやって欲しい。」とブレーク(交信に第三者が割り込むこと)がかかる.長谷川さんらは「われわれは十分楽しんでいるので、このまま続ける。」という。相手は「短点か長点(モールス符号の信号)かわからないではないか。」といってくる。再び「われわれはこれで十分わかっている.余計な心配は無用。」と言い返したこともあった。

長谷川さんが「CW早打ち」になったのは、17、8才の若い時に千葉県・銚子や、長崎を母港とするマグロ漁船などの船員と盛んに交信したためである。いわば、プロである彼らにもまれたためである。その仲間である「さみだれ会」に入れてもらい、さらに技量は向上したといえる。

大学時代、自宅にハム仲間が遊びに来た。話は、いつもアマチュア無線のことになってしまった。