長谷川さんは、高校入学とともにアマチュア無線に興味を持ち、すぐに地域の「明石アマチュア無線クラブ」に加入した。同クラブは昭和31年に発足していたが、明石市市立天文科学館が設立された35年に明石クラブ局を同科学館内に設けた。明石市は、日本の標準時刻を決める場所で知られている。

明治19年(1886年)に明治政府は、世界の標準時刻となっている英国のグリニッジ天文台と同じ東経135度の子午線の上に明石市を「本邦一般の標準時と定む」との勅令を出し、それ以後、日本の時間を刻んできた。長谷川さんがそのクラブやクラブ局で活動するようになったのは30才になった頃、昭和50年代の初めである。クラブ局を天文科学館の中に置いていることから、明石市や天文科学館との関係は深かった。

日本標準時制定100周年の記念特別局8J3JSTを運用する長谷川さん。明石市立天文科学館。

このため、「明石アマチュア無線クラブ」は、昭和61年(1986年)の天文台設立百周年には積極的に支援活動を行なった。クラブ自身も発足30年を合わせて行なうことになったためでもあるが、科学館内ではクラブ局を運用する他、アマチュア無線通信機メーカーも機器を出品、展示会が行なわれた。記念局(JA3YASの移動局)を九州行きのフェリーボート「くぃーんふらわあ2」に設けた。

100周年と同時に明石アマチュア無線クラブの設立30周年が行われ、アマチュア機器メーカーの展示会も企画された。

当時、長谷川さんは「明石アマチュア無線クラブ」の会長として、これらの指揮をした。「船には若いクラブ会員4、5名が乗り込んだが、記念局が九州まで移動して交信したことにクレームがついたこともあった。」と、当時を振り返る。1カ月間の交信記録は約45000局であった。もう一つの思いではQSLカードをコンピューターで打ち出させたことである。「当時はコンピュータの利用は珍しかったと思う。」という。

同じ記念特別局はフェリーの「くぃーんふらわあ2」に乗せられ九州まで出かけた。

これら一連のイベント支援に対して明石市はクラブに対し文化功労賞を与えている。長谷川さんは「クラブは、明石市や天文科学館に大変なお世話になってきた。それを忘れてはならない。」と常々語っているが、そのお礼にクラブもボランティア活動を実施してきた。昭和62年(1987年)、クラブは明石市の姉妹都市である無錫市の少年宮にアマチュア無線機を寄贈した。少年宮はスポーツや歌舞の英才教育を目的とした学校である。

中国ではアマチュア無線もスポーツのジャンルに入っており、この少年宮への寄贈がふさわしいと判断したためである。この話が伝わると、無錫市の射撃学校からも寄贈の依頼が寄せられた。その時は、資金のないクラブを見かねて市が援助している。

また、長谷川さんは個人的に同天文科学館へのレーダー設置を支援したこともある。もともと、同科学館にはレーダーがあったが古くて使用に耐えなくなっていた。といっても、市への無償提供をするためには複雑な手続きが必要である。そこで明石市が主催した「星と電波の展示会」が行われたのを機会に、あるメーカーにレーダーを出展品として貸し出しを依頼、期間中に展示・実演を実施した。展示会終了後の撤収に際し、提供いただいたメーカーには展示品を「処分品」として寄贈していただくことを依頼、メーカー、市の双方ともに快諾をえることができた。

ところで、長谷川さんの交信上での思い出は、DX(遠距離交信)を始めた昭和50年代初期に7MHzでドミニカ共和国など日本との交信が困難なカリブ海諸国からCWで呼び出され、交信ができたことだという。アンテナは3エレメントのビームを使用し、夕方の5時~6時半ごろがピーク。長谷川さんの交信が終了するのを待ちかねて、日本の各局のパイルアップ(一斉に多くの局が呼び出す)状態になるものの、先方とつながらない。それだけ、ゲインのある高性能アンテナの威力は大きかった。もっとも、長谷川さんの自宅にそびえる高さ20mのポール上に40kgのアンテナを取り付ける作業は大変であり、4人がかりの仕事だった。