「明石アマチュア無線クラブ」のアクティブな活動が認められ、長谷川さんは平成2年(1990年)にJARL兵庫県支部長、平成8年にJARL関西地方本部長に選出される。この間、平成6年(1994年)には会費値上げを審議するJARL総会が地元・神戸の神戸国際展示場(ポートアイランド)で行われ、さらに、その翌年の7年にはあの忌まわしい阪神大震災が起こるなど、多難な年が続いた。

JARLの36回総会は神戸市で開かれた。「会費値上げ総会」ともいわれ、取材陣もいつもより多かった。

「JARL神戸総会」の最大の審議事項であった会費値上げは郵便料金の値上げなどに伴うもので、13年ぶりの改定というものの、値上げ幅は大幅なものだった。入会金は500円から1000円に倍増。正会員の年会費は、4800円から7200円へと50%増であり、また、終身会費は8万円が20万円となるという内容であった。この年2月には理事会に合わせて臨時評議会が開かれ承認されていたが、総会で否決されたら成立は難しい。この時、長谷川さんは表面には出ずに「黒子」として活躍した。

総会は夜遅くまでかかった。終了後ほっとした開催関係者。

阪神大震災---神戸、芦屋、西宮、淡路島などの被災地の人たちは、6年半が経過した現在でも、この時を思い出すと暗い顔つきとなり、言葉少なくなるか、逆に雄弁となるかのどちらかである。言葉少なくなるのは、思い出すとつらくなるからであり、多弁となるのはいやな思い出を他人に語ることで癒したいからである。

その時、兵庫県を中心としたハム達はどうしたか。ここに一冊の本がある。赤い表紙、B5判70ページ。「阪神淡路大震災 JARLボランティア活動従事者からのレポート」と題されたハム達の活動報告でもある。JARL関西地方本部長となってから、長谷川さんが秋田政廣(JA3SHL)さん、我孫子達(JH3GXF)さんらとともに、平成8年8月にまとめたものである。

長谷川さんによると「震災直後、被災地の交信は絶えた。恐らく、誰もがマイクを握り、キーをたたくことを一瞬忘れたように呆然としたはず」という。そして、我に返ったハム達は、自らの命を、家族の生死を、そして、隣近所の人たちの無事を確認し、ある人は救助に走り回った。迫り来る猛火に逃げ回ったハムもいた。アマチュア無線による情報交換は当然後回しとなった。通信に気がついたものの無線機が崩れ落ちた瓦礫の中で見つからないハムも少なくなかった。そもそも、しばらくは停電が続き電源がなかった。したがって、レポートをこのような事情を理解した上で読み進めると、献身的な努力をしたことを知ることができる。

長谷川さんは、自らの13日間の体験を記すとともに、今後の災害の参考となる『JARLの対応と対策』を書いている。長谷川さん自身は、神戸市垂水区の自宅、事務所ともに、室内は家具の倒壊や破損に見舞われたものの、建屋の外観そのものはさしたる被害を受けなかった。しかし、しばらくの間の停電、電話の不通の他、水道・ガスなどライフラインの復旧までは数週間から1カ月以上もかかった。

私生活では、食料の調達、給水車からの水くみなどに追われた。震災から10日後、長谷川さんは、風呂を求めて「放浪の旅」に出る。この頃、神戸市内の風呂屋は2時間並んで10分程度の制限入浴の状態であった。長谷川さんは「風呂に入れるまでは家に帰らぬ覚悟だった」とまで書いている。

多くのハムがこのような生活環境下に置かれていた。前年(平成6年)の12月に入院手術し、自宅療養中だった谷通好(JA3WGL)さんは当日、自家発電機を使い交信を試みるが、被災地区からの入電はなかった。18日夕方、電力が復旧したため周辺エリアを地域指定で呼び出すが、神戸市東灘区の富安大輔(JK3LFO)さんとの明瞭な交信の他は、ほとんどの交信ができなかった。一方、富安さんは同じく当日、自家発電機を電源にして、被災地の被害状況をつかみ、全国に情報を提供するなどの活動を始めている。

平成7年1月17日5時46分、突如として神戸・淡路地域は激震に襲われた。あちこちで悲惨な光景が目に付いたが、被害の全貌がはっきりするのには1週間以上もかかった。写真は芦屋駅付近の住宅。