その後、富安さんはハンディ機をもって東灘区のボランティア活動に参加、避難所を回るなどの救援活動を行なっていた。被災から3日後、東灘区の住民の一部である約200名が隣接の芦屋市内の学校に避難してしまったため、区が気づかず3日間も救援物資が届いていないことを知った。ハンディ機を使い、奥(JG6VDV)さんに確認を依頼し、その結果、1日分の水と食料を配達することができた。「このことが、後にアマチュア無線を活用する活動に参加するヒントとなった。」と、富安さんは記している。

一方、谷さんは他のハムと連絡が取れないことにいらいらしていた。5日目の21日、神戸港に入港してきた海上自衛隊の護衛艦「しらね」に乗船している小田嶋(JM1YEP)さんからの応答があり、「被災地の神戸で非常通信らしきものをしているのはWGLだけのようです」と言い「交信に参加したい」との申し出があった。この日あたりから除々に各方面と連絡が取れるようになってきた。JARL(日本アマチュア無線連盟)、JARD(日本アマチュア無線機器工業会)からは、ハンディ機260台が届けられることや、レピータ(中継器)の設置許可が下りたことがわかった。

レピータ(JA3YRL/3)は「傾いた家とタワーであるが、他に申し出がなければ引き受けましょう。」と、富安さんの自宅に置かれることになり、設営とテストには何人かのハムが協力してくれる。谷さんは「富安さん一人でのレピータ運用は困難。震災の後片付け、水くみ、食料の調達などがあり、無線にかかりきるわけにいかない。」と、JARLに救援を要請している。

富安さん宅へのレピーター設置や運用には都合のつくハムが駆けつけた。

レピーターの置かれた富安さん宅には、JARLの原会長も激励に駆けつけた。右から富安さん、原会長、長谷川さん、島伊三治(当時の関西地方本部長)さん。

支援のハムが集まりはじめた。富安さんと隣接している灘区に自宅を持つ谷さんは、同区の神戸学生青年センター内に災害通信特設局(8J3AMJ)を設ける。この特設局は約2カ月の間活動を続け、合計146名の参加協力があった。JARL会員63名、非会員64名の他、免許をもたない19名が含まれている。谷さんはその詳細をレポートしている。

被災地からやや離れた赤穂市にいた秋田さんも18日になって、一部のハムと連絡が取れたと言う。それでも19日に矢尾裕彦(JA3HLT)さん、深尾忠雄(JH3AEY)さんや、我孫子さんとの連絡は電話を使ってのものであった。22日ごろから交信のネットができはじめ、JARLからのハンディ機の提供、大阪・生駒山頂のレピータのビームを阪神地区に向けたことを知る。

24日には秋田さんらは車で、渋滞の神戸市内を迂回し、北方の三田市経由で、一方、長谷川さんは単車で神戸、芦屋、西宮の被災地を縦断するルートで、それぞれ大阪市のJARL関西支部事務局に、ハンディ機の受領に出かけている。その後、被災地に戻り手分けして、ハンディ機を各避難所や自治体に配付、また、2月5日には神戸市西区の体育館にレピータ8J3AMを設置、さらに、基地局を神戸市長田区、西宮市、宝塚市に設けることにした。

ここまで、秋田さん、富安さん、谷さん、長谷川さんの被災後の行動について断片的に触れてきたが、これ以外にも多くの被災ハムの方や、遠隔地のハムが活躍した。宝塚市の長澤道一(JJ3UXN、JH3YRO)さんは21日に西宮市、25日に宝塚市に、それぞれ基地局を設けるとともに、災害救援隊や新聞販売店などにJARLから貸与されたハンディ機を配備した。東京の大西孝博(JL1LET)さんは、赤十字防災ボランティアとして、早くも20日に現地入りし、日赤兵庫県支部の管轄下で支援活動を行ない、25日には特設局(8J3AAH)を立ち上げている。

被災地のハムは大阪にハンディ機の受領に出かける。第1回の200台をチェックする。右から長谷川さん、秋田(当時兵庫県支部長)さん、竹谷さん。

被災後、細かく記録を残しているハムもいるが、多くが被災のショックや多忙と混乱のため、直後の行動と日時の関連が明確な記憶として残っていない。それでも、被災地にボランティアで訪れた兵庫県以外のハムの数は「600名以上になると思う」と、長谷川さんは語る。物資もハム個人、クラブ、職場のつながりで続々と届いた。