[東成区・今里] 

葭谷さんは昭和11年(1936年)9月、大阪市・東成区の今里に生まれた。大阪城の東南、四天王寺の東にあたるこの地域は、江戸時代までは四天王寺の所領地であり、江戸時代になると徳川幕府の直轄地に変わった。水利に恵まれ、農村が点在する地域であったが、明治の中ごろからは徐々に家内工業、商業が増えだしたという。

昭和初期まで東成区は、現在の生野区、旭区、城東区、鶴見区を併せた広大な区域であったが、昭和7年(1932年)に旭区が独立、同18年(1943年)に生野、城東の2区が独立した。現在の今里周辺にはJR環状線、近鉄奈良線、地下鉄千日前線が通り、大阪市東部の拠点の一つとなっている。

[戦時下の少年時代] 

昭和11年(1936年)生まれの葭谷さんは、日本の戦時体制とともに幼少期を送ったといえる。誕生の年には「2・26事件」が起き、11月には後の太平洋戦争につながる「日独防共協定」が調印される。翌年7月には中国・北京近郊で「蘆溝橋事件」が勃発、ついに「日中戦争」に突入。その後は11月の「日独伊防共協定」の調印を経て、世界を相手とする戦争への道へと突き進んでいった。

昭和16年(1941年)12月8日、葭谷少年が5歳の時に日米が開戦。約、4年間の暗い時代を迎えた。同時にめまぐるしい学制の変遷に翻弄されたのもこの時代の少年の特徴であった。入学した小学校は「尋常小学校」であったが、昭和19年(1944年)には「国民学校」に改称される。戦後の昭和24年(1949年)には、現在の「小学校」「中学校」の義務教育制度への改革が行われている。

葭谷少年にとっては、学制改革は関係なく「とにかく遊びまくっていた」という。太平洋戦争の末期には米軍による爆撃から逃げ惑う日々を過ごした。戦前はもちろん、戦後も長い間はハムになった多くが、小学生、中学生時代にラジオに興味をもち「ラジオ少年」の時代を経ているのが一般的であった。

赤城から飛び立つ97式艦上攻撃機

[遅かったラジオ自作] 

ところが、葭谷少年はそのような時代を過ごしていない。ラジオに興味をもったのは、高校に入学してからである。昭和26年(1951年)である。理由がある。この年、民間ラジオ放送が許可され、9月1日に初の民間ラジオ放送が大阪・新日本放送(NJB、現毎日放送)、名古屋・中部日本放送(CBC)で始まった。この民間放送開局を前にラジオ受信機の需要が高まり、多少ともラジオ作りの技術をもっていた人はラジオつくりに熱中した。

葭谷さんも「無線と実験」や「CQ ham radio」などの雑誌を読み、独学でラジオ作りに挑戦した。「もちろん、最初は鉱石ラジオから取組み、やがて真空管ラジオを作るなど、徐々に自作は高級なラジオに移っていった。作ったラジオで放送が聞こえる満足感に浸った」と当時を振りかえる。

葭谷さんがラジオの製作を学んだ「CQ ham radio」の創刊9月、10月号

[アマチュア無線を知る] 

ラジオ用部品を販売している日本橋の電気街も近かった。「なんでも日本橋で揃った」という。もちろん、高校の勉強はおろそかになる。仲間がいなかったことが、逆に無線知識をがむしゃらに吸収させた。「無線雑誌を読んでいると、皆がこんなレベルだと思ってしまった」からである。そのころ、国内で米軍のアマチュア無線局が交信しているのを聞いた。

無線雑誌で、アマチュア無線技士の国家試験が行われたことや戦時中に禁止されていたアマチュア無線の再開が近いことも知った。しかし、試験に合格し従事者免許を取得した人達に、予備免許は容易に下りなかった。日本を実質的に統治していたGHQ(進駐軍)の意向であった。待ちきれない一部のハム志望者はアンカバー通信をやりだした。

同じ敗戦国の西ドイツでは、アンカバー通信を堂々と行い進駐軍に圧力をかけた。彼らは米軍指令部に対して「われわれは米国に抵抗しているのではない。ドイツ政府が免許を再開してくれないためである。毎週、電波を出している者のリストを提出するし、私書箱に送られてくるQSLカードも毎日検閲しても良い」と提案した。

米軍はアンカバーを認め「早くアマチュア無線の法規を作り、正式な許可をえるようにすべきである」と、免許再開を支援してくれた。その結果、1949年に再開されている。日本では、この情報を知った一部のハム志望者がそれに勇気づけられ「西ドイツを見習おう」とアンカバーを始めた。しかし、日本では厳しい取り調べを受けざるをえなかった。ちなみに「日独伊防共協定」を結んでいたもう一つの敗戦国であるイタリアは、戦後すぐに免許が再開されていた。