[1952年8月5日] 

昭和27年(1952年)8月5日、葭谷さんはこの日付をはっきり記憶している。夏休み中である。葭谷さんはそれまで「JA6IP」のコールサインを使っていたが、この年の6月19日に電波管理委員会が免許方針を発表し、プリフィックスがJA1からJA8になることがわかったため、このころは「JAφIP」を名乗っていた。この日も家の2階で無線機とマイクを前に「いつものアンカバー仲間としゃべりまくっていた」という。

しばらくすると、階下にいた飼い犬のシェパートの唸り声が聞こえ、突然、階段を4、5人の大人がかけ上がって来た。部屋に入ると「はい、そのまま、そのまま」といいつつ、家宅捜索令状を広げて見せた。葭谷さんは「びっくりし、身体が硬直してしまったが、頭の中ではついに来るべきものがきたか」と、思ったという。

「来るべきものがきたと思いつつも、次には震えが止まらなくなった」という。警察官は手際良く無線機や、マイクロホン、コード、電子部品類をまとめて、やってきたジープに積み込み始めた。葭谷さんは「手錠はかけなくともいいだろう」という警察官同士の会話を聞きながらジープに乗せられ、大阪府警本部に連れて行かれた。

当時は、大阪・都島にある都島高校の生徒にラジオ少年が多く、アンカバー通信を常にやっていた。葭谷さんは、それを聞き家を訪ねて無線機を見せてもらうなど親しい関係になっていた。ある日、その高校のK君が訪ねてきて「捕まってしまった。君も気をつけた方がいい」と、忠告してくれた。それを知ったある京大生は、無線機をもって警察に自首した。

しかし、葭谷少年は交信の魅力に取りつかれていた。どうしても止められなかった。その後は学校に出かけると時は、無線機を押入れに隠し、帰ると引き出して交信するなど注意するようにしていた。アンテナは「鯉のぼりのポールを建てたままにして活用しているため、外からは目立たないと考えていた」という。

葭谷さんも送信管には「807」を使った。807真空管各タイプ

[約1週間の尋問] 

しかし、府警は証拠に交信を録音。府警本部に連行された葭谷さんが見せられたのは、交信内容を録音したオープンリール式テープレコーダーのテープ5、6巻と方向探知機であった。テープを再生するまでもなく現場を押さえられているだけに、葭谷さんは「全面的に電波法違反を認めざるをえなかった。取調べは厳しく、その日は深夜まで調べられた」という。

オープンリール式テープレコーダー(松下電器のRQ-201)

翌日から取調べは約1週間続いた。逃亡の恐れがない高校生ということで「毎日、府警本部に朝出かけ、夕方まで少年取調室で詰問された。調べられた内容は、友人関係、思想問題が中心だった」ことを葭谷さんは記憶している。昭和25年(1950年)6月に勃発した「朝鮮戦争」はまだ続いていた。加えて、ソ連に抑留されていた元日本軍兵士は、現地で共産主義教育を受けて、日本に帰還させられていた時期でもあった。

日本とソ連・北朝鮮との間の情報交換を無線でやり取りしているのでは、との疑いを当時の公安警察は厳しく監視していた。当然なことながら、アンカバーのアマチュア無線局は疑われた。事実「三橋事件」といわれたスパイ事件が起き、大きな話題となっていたころでもあった。

[三橋事件] 

「三橋事件」は今では忘れ去られているが、当時は不可思議な事件として大きな話題となった。昭和28年(1953年)8月4日に国会・法務委員会での証人尋問に答えた三橋正雄さんの証言から、事件を簡単に紹介しておきたい。

三橋正雄さんは大正2年(1913年)に東京で生まれ、満州の満鉄医科大学病院、東京のラジオ商店に勤務の後、昭和12年(1937年)に電機メーカーである当時のT電波に入社。昭和19年(1944年)に召集を受けて、満州・新京の関東軍固定通信隊に所属。終戦後にソ連に抑留され、昭和22年(1947年)4月にモスクワの収容所に転属させられる。

そこで、ソ連の諜報部の仕事を命じられ、7月から通信の教育所で教育を受け、日本への帰国後はソ連大使館の指令を受けてソ連との間の秘密無線局を開設せよと指示されて12月に帰国。T電波に復職し勤務していたが、昭和24年(1949年)米国のCIC(総合情報委員会)の取調べを受けた際、これらの事情をすべて報告。CICはソ連の命令通りにしたがって欲しい、と指示。

ソ連大使館からは4月ごろ無線機を渡されて、5月ころから下宿で通信を開始、7回にわたって、暗号電報を受けとって送信した。連絡役の日本人との会話、暗号電報の内容はその都度、米側に報告されていたが、連絡役がスパイ容疑でGHQに逮捕された後、三橋さんは日本の警察に自首した。しかし、連絡役はすべてを否定し、米軍の謀略と主張している。

良くわからない事件であるが、要は戦後勢力拡大を図る共産勢力と、日本を共産主義の防波堤としようとした米国の狭間での事件といえる。しかし、それにより迷惑を受けたのはアンカバー通信をしたラジオ少年達であり、後には正式に免許を受けたアマチュア無線局であった。昭和20年代末には多くのハムが密かに調べられ、あらぬ疑いをかけられていた。