[自作機を自分自買う] 

取調べは係官が「電波法」を広げながら行われた。度々ある犯罪ではないからである。結局「不起訴か不処分かはわからないがお構いなし、ということで調べは終わった」が、親が呼びつけられて注意を受けた。この時、16歳であったが住所、実名で「電波法」違反として新聞の記事となった。「自分の犯した罪とはいえ、腹が立った」という。

葭谷さんは、正式に免許を取ろうと勉強を始めた。3、4カ月たったある日、東住吉に住むある人が「あんたの作った無線機が、大阪・日本橋電気街の五階百貨店で売られているぞ」と知らせてくれた。駆けつけると確かに自分のもの。「これは僕の作ったもの。どうしてここにあるのですか」と店主に聞くと「警察が押収した品の競売があり、入札で買った」という。葭谷さんは自分の物を買い取ることになったが「いくらだったかは覚えていない」という。

余談となるが「五階百貨店」について触れておきたい。電気街の裏通りに立つ3階建ての建物であり、中古の電機製品、工具、建築金具などを扱う小さな店が入居。遠方からのお客も多く、日本橋電気街の魅力の一つになっている。3階ながら5階と呼ばれるのは、明治21年(1888年)に、この近くに5階の「眺望閣」が建てられたためである。大阪初の高層建築だったという。

 

大阪・日本橋電気街にある五階百貨店の現在

上階からは六甲連山、淡路島も眺望できる名所であり、内部はあらゆる物を販売する店舗だったが、太平洋戦争の空襲で焼失してしまった。その後、共同店舗として再建されたのが現在の「五階百貨店」である。資金がなかったので、とりあえず3階建てとし、徐々に5階までにする計画だった、との話もあったが、真偽の程はわからない。

[2度目のアンカバー] 

2度とアンカバーはやるまい」と決めた葭谷さんであったが、交信できる無線機が目の前にあると「どうも気になって仕方がない。受信機で再開されたアマチュア無線や、アンカバー局の交信を聞いていて我慢するのは大変な努力がいった」という。そして、交信の魅力に耐えきれず、翌28年(1953年)2月再びアンカバー通信をし、再び逮捕される。

2度目の取調べでは「2回目は堪忍しない」といわれ、再び「通いで取り調べられた」が、半年前に厳しい取調べは済んでいる。「高校生なら仕方ない」と、また、お構いなしとなる。前回は何もいわなかった親に厳しく叱られた。それでもお父さんは密かに友人の弁護士に相談しており、万一の場合のことを考えていてくれたという。

東京の庄野久男(JA1AA)さんによると、昭和27年(1952年)2月15日現在、アンカバーでの検挙件数は60数件という。この当時は、アンカバーで逮捕されると2年間は免許が与えられず、その人達は「2年組」と呼ばれていた。庄野さんはその人達の救済のためにも力を尽くし、法務省に嘆願したりしたが成果がなかった、という。

JA1AAの庄野さん

当時のアンカバー家宅捜索は「暁の急襲」と揶揄されていた。早朝、多くの警察官がトラックに乗ってやってきて、家の回りを取り囲んだ後に何人かが家の中に入りこみ、徹底的に捜索された。殺人犯の逮捕劇のようなやり方について、庄野さんは「連行されたのは高校生、大学生が多く、近隣の人達や遠慮のないマスコミから受ける苦しみは大きかった」と語っている。

[2級に合格] 

昭和29年(1954年)始め、葭谷さんは第2級アマチュア無線技士の試験を受けて合格。高校3年生になっていたが年齢は17歳であり、最年少合格者の一人だったらしい。すぐに免許を申請するが、予備免許はなかなかもらえなかった。同時に合格して申請した他の人には、次々と予備免許が下り、コールサインをもらっている。心配になった葭谷さんは近畿電波監理局に時々出かけて「どうして、遅いのですか。まだですか」と催促した。

事務所の入り口で、お願いしていると奥の方に座っていた課長が気付き葭谷さんの所にやってきて「お前か」と懐かしそうに声をかけてくれ「ああいうことをしでかしているのだから簡単に免許できない。もうしばらく待ちなさい」といわれた。その後も「もうしばらく」と断られるのが常であった。

半年ほどたったころ「もうぼつぼついいだろう」といわれ、コールサインはアンカバー時代に使っていたIPを頼んだ。係官は「IPを待っているとだいぶ遅くなる。どうするか」といわれ結局JA3IGとなった。「もう待てなかったし、IGはグリッド電流を意味するので決めた」という。JA3EQをもらった同時合格の仲間もいたことを考えると、相当期間待たされたことになる。

[広がるハム友達] 

2度目のアンカバーで没収された無線機は、どこにいったのか返ってこなかった。局設備の申請を出し、それに基づき自作に取り組んだ。送信管は当時盛んに使われた807を使用し、水晶発振子は水晶片を擦って作った。このころには技術に詳しい人達との交流もでき「いろいろと教えてもらった」という。

なかでも、受験の時に一緒であった仲間とはその後も親しくしている。試験は守口市の大阪電通大で行われたが、終わって教室を出ると開放感からか初対面同士でも会話が始まった。葭谷さんがアンカバーで捕まったことを話題にすると、急に親しげな関係になり話しが弾んだ。

その揚げ句「皆で日本橋の電気街に行こうとなり、4、5人が連れ立って電車に乗り込んだ。皆、免許取得後の自作無線機の配線図を頭に描いており、会話は楽しかった。ひとしきり、ジャンク屋を回った後、当時日本橋にあった高島屋百貨店の屋上で、長い間話しこんだことが思い出される」という。