[セントブランドン] 

グループで行ったペディションの一つがセントブランドンだった。スイス人ハムのグループから声をかけられ、打合せを開始した。とりあえずモーリシャスで落ち合って、チャーター船で行った。参加ハムは10名だった。この時の記録は「CQ ham radio」に寄稿した。また、クーレ諸島には米国人、ロシア人、スエーデン人ら7人で出かけた。まさに国際的なクルーだった。

クーレ諸島の上陸禁止の看板前の葭谷さん

葭谷さんのペディションでは上陸するのが難しい所を含めて島々が多いが、大陸のハムが少ない国も対象である。その一つがブータンであり、米国人グループの10名で出かけた。この時は現地でのペディションのほかに、現地のクラブ局に無線機を寄贈する目的があった。

ブータンには米国のハムとともに出かけた

悲しくつらい思いでもある。ペディションのついでに渡ったアドミラル諸島のマヌス島は地図にも載っていない小さな島であるが、太平洋戦争中日本将兵約4000人が餓死した島である。米軍に補給路を断たれ食料の補給ができなくなり日本は、現地の将兵を見捨てた。頑強なトーチカまで作りながら救う手だてがなかったかと思うと「戦争の悲惨さが改めて思い出された」という。

ヤップ島で、かつて貨幣として使われた石貨と

[空気を振るわせたい] 

葭谷さんが海外ペディションに出かけた国や領土は下記の表の通りであり、ほとんどが一般の人になじみのない場所であり、初めて聞く島の名前も多い。葭谷さんは「世界中のハムに呼ばれてみたい」と、海外ぺディションに熱中した、ということは先に書いたが、もう一つ理由があった。

それは、アマチュア無線を始める前にある雑誌で読んだ戦前のハムである齋藤健(J2PU、JA1AD)さんの文章であった。斎藤さんは「ニューカレドニアのハム局が受信してくれた。私の電波がニューカレドニアの空気を震わせたのだ」と書いていた。葭谷さんはその文章に感動し、ハムになったが、同時に遥かに遠い異国の地で「空気を震わす」ことにその後あこがれつづけていたのである。

これらの海外ペディションで葭谷さんが交信した局数は多い時には3000局。合計すると7万局程度になるという。最近ではカードを数えていないが、海外交信局はノートにすべて控えており、そのノートは12冊にもなった。このところ、葭谷さんは体調を心配し、海外行きはやめているが「人が行かない所には今でもすぐに行きたい」という。

海外ペディションに出かけた国や領土(順不同)
ロードハウ島、イースター島、 キリギス、   アイスランド、  セントブランドン、
グアム島、  ロドリゲス島、 ネパール、   マーシャル諸島、 フレンチポリネシア、
ベトナム、  ハワイ、    ナウル、    クーレ諸島、   パプアニューギニア、
バヌアツ、  トルコ、    パラオ、    ミッドウェイ、  ココスキーリング、
トンガ、   ミクロネシア、 フィージー、  ブータン、    ニューカレドニア、
モリジブ、  クリスマス島、 マリアナ諸島、 ヤップ島、    ブルネイ、
マレーシア、 タラワ島

 

[行こうと決断することが大事] 

海外のDXペディションには周到な準備が必要であるが、それ以上に大事なこととして「行こうと決断することがもっとも大事」と指摘する。葭谷さんは、現地では宿泊場所を予約せずに出かける。無人島ならば最初から宿泊場所はない。宿泊場所があれば泊めてもらえるからである。「現地で知り合った人の家にお世話になるのは避けている。迷惑をかけたくない」からである。

現地で使うアンテナは通常はワイヤーである。荷物にならない上に現地ではスペースがあるからである。現地ではもちろん観光もするのが葭谷流のペディションである。ハム以外の現地の人との交流も欠かさない。

アマチュア無線と関係ないが、活動的な葭谷さんは、ハワイで行われるホノルルマラソンに10年前から参加している。「参加するためには日頃から走っておく必要があり、健康を維持するために参加を決めた」という。ホノルルマラソンは時間制限がないため歩いて完走しても良いことになっていが、葭谷さんは5時間台で走っている。

海外との交信はノートにびっしりと書き込まれ、12冊になった

[807の会] 

毎年、8月の7日前後に行われる関西地区の催しに「807の会」別名「昔を語ろう会」がある。戦後、アマチュア無線送信機自作時代には送信管に807が使われた。同会はそのころのハムの集まりである。12年前に葭谷さんと島伊三治(JA3AA)さん、井上徳造(JA3FA)さんの三人が会った時、「懐かしい仲間が集まる会をやろう」と、実現した。

呼びかけたのは約170名であり、第1回の会合には120名が参加した。今年(2004年)大阪市内の中華料理店で開かれた12回には約50名の参加だった。「807」は、ある意味でハムの代名詞でもあったが、トランジスター、IC、LSIの時代を経て、そのような真空管を知らない世代が多くなってきた。今年の集まりでは幹事であった3人は、役職を若い世代に渡すと宣言した。

[50年のハム歴] 

「アンカバー交信を含めた初期、アワードに熱中した昭和50年(1975年)前後、そして、海外ペディションに夢中となった平成以降の3つの時期が私のハム活動のもっとも活発だった時」と、葭谷さんは振りかえる。「アマチュア無線がなければ私はどうしていたか、と時々思うが、その答えは見つけられない」ともいう。結局、葭谷さんにとってアマチュア無線が人生だったといえる。