昭和3年(1928年)、エレクトロニクス技術の発展の上でいくつかの画期的な動きのあった年である。3月にパリ-ニューヨーク間で電話が開通。5月にはニューヨークで週3回、1日短時間のテレビ放送がスタートしている。日本では、3月に浜松高等工業の高柳健次郎教授がブラウン管を用いたテレビ実験に成功した。この5月、井原さんは広島県御調郡三原町館町で生まれた。ご両親ともに小学校の教師であった。三原は小早川隆景が築城した“浮城”の城下町として栄えた町であるが、井原さんにとっては「冬の“神明祭”や夏の“やっさ踊り”などの賑わいを思い出す懐かしい町」であった。

昭和10年、三原女子師範付属小学校に入学した井原少年は、おもちゃや機械などをすぐに分解するなど、動くものに興味を持つ少年だった。家には茄子型真空管4本を使った高周波増幅1段付きの縦型受信機があり、ある日、父親が縁側でシャーシをラジオの箱から出していたのを見て、不思議なものに思ったことがラジオマニアになった原点という。

井原さんの小学校時代(従道小学校)

小学校4年生の時、父親は江田島の海軍兵学校の校内にあった従道尋常高等小学校の校長に転出。井原少年も転校となる。海軍兵学校は旧海軍の将校を養成するエリート校であった。もともとは、東京・築地にあった海軍兵学校が明治21年に移転したもので、太平洋戦争終戦までの57年間に約1万4千名の海軍士官を養成した。従道小学校はそこに勤務する教官の子弟のために設けられたもので、校名は西郷隆盛の弟で明治時代に海軍大臣となり、元帥にまでのぼり詰めた西郷従道の名前から付けられた。「行った当初は古くさい寺子屋のような校舎であったが5年生の時、新しい校舎が竣工し、設備・備品も一新した学校になった」という。構内はいつもきれいに掃除され、官舎街も静かで「環境に恵まれ、先進的な設備と子供の立場に立って指導される先生方に育まれる楽しい学校であった」と思い出を語る。

従道小学校の校庭(当時としては立派な校舎だった)

小学校6年、雑誌「子供の科学」を見て、鉱石ラジオ作りに挑戦する。鉱石検波器、バリコン、ヘッドホン(当時は載頭型受話器ともいわれた)を求め、コイルを自作したが広島の放送(JOFK)は聞けなかった。「作り方が悪かったのか、背後に聳える古鷹山が電波の壁になったのか・・・・それでも自分で作ったことが嬉しかった」という。その後、古沢匡一郎著の「やさしいラジオの作り方」で「私設短波無線電信電話実験局」の存在を知り、海外との交信もできる私設短波実験局の写真を見てあこがれる。

「70歳を過ぎ、未だにアマチュア無線にこだわり、唯一の趣味として“日々好日”で過ごしているのも、この時の印象が強烈だった」からという。昭和16年。この年は12月に太平洋戦争に突入した年であった。4月に県立呉第1中学校(現三津田高校)に入学した井原少年は「伯母さんからもらった入学祝いで電池用真空管UX-30を購入。しかし、必要な45VのB電池などのラジオ用部品は戦時下のため、市場から姿を消してしまっており、完成できなかった」という。2年生となり、同じ作るなら高周波増幅をつけようと、遮蔽格子4極管UX-32を買ったが、ラジオ屋から住所、氏名を書くように言われる。特殊用途の球であり、憲兵隊からの指示だという。そういう時代になっていた。

幼少の頃の井原さんと両親、兄弟