中学2年、父親の転任で安芸郡府中町に転居。広島駅までは歩いて40分ほどの場所となった。休みの日にはB電池を探して広島市内を歩き回わり、ようやくラジオ店で見つけることができた。値段は5円と高価だった。半年後、電池式の短波受信機0-V-0を製作し、初めて短波の世界をのぞく。「短波放送は聞こえなかったが、“ピッピー、ピッピー”と電信が入ってきて意味はわからなかったが、何か秘密ごとを聞いているような気持ちになった。当時、短波の受信は一般に禁止されており、見つかるとひどい罰を受けるといわれていた。」井原少年は、受信する時は外からはわからないように細い銅線を屋根の上に放り出してアンテナとし、終わったらすばやく手繰り寄せた。それでも「びくびくしながら受信した」という。

かつてのシャック。上段に戦前買い求めた真空管が並んでいる。

昭和18年、井原少年は県立広島一中(現・国泰寺高校)3年に転入学。4年生になると「通年勤労動員」が始まった。太平洋戦争は戦線が拡大し、必要とする兵力を確保するため、徐々に徴兵年齢の幅が広がっていった。それにともない、国内では武器や食糧増産のための労働力が不足し、中学や女学校の生徒が工場や農村に派遣され、生産に従事することになった。井原少年は東洋工業(現・マツダ)で、99式歩兵銃や航空機エンジンのシリンダー内面研磨盤の生産にかかわった。99式歩兵銃は、38式(明治38年制定)歩兵銃の後継銃で、38式が殺傷力が弱いといわれたため、口径を大きくして銃身を短くしたものである。紀元2599年(昭和14年)制定のため、99式の名称が付けられたと思われる。

この動員ではさまざまな体験をした。後期には作業は3交代制となった。ある日の徹夜作業の夜、不注意から事故を起こす。銃身に弾道をくり貫く作業の時、中ぐり盤の電源を入れた。ところが、スイッチケースが壊れ220Vの生線が剥き出しになっていたことに気がつかず、体を支えるため左手を機械に置き、右手でスイッチをいれた瞬間に感電。「ものすごい衝撃を受けて気分を悪くして、一晩中治らなかった」という。アマチュア無線どころか、本業の勉強さえ満足にできない時代であり、井原さん自身も「今から考えると、大変な時代であり不自由な社会であった」と振り返っている。

この時、井原少年は東洋工業の鍛造工場で直径3m程度の鉄の皿を見て不思議に思っていた。最近になって、新型レーダー用のディッシュ(パラボラ)アンテナだったことに気づいた。吉村昭著の「深海の使者」や津田清一著の「幻のウルツブルク」を読み、ドイツから取り寄せた貴重な機材、データを元に作った電探用パラボラアンテナとボックスだったことを知った。「深海の使者」は、太平洋戦争下の日本とドイツ間の情報、物資、人の交流を大きなスケールで描いたものであり、多くの読者を引きつけた。危険な敵国の領域を侵して、両国が「伊号」や「Uボート」潜水艦で、何度もドイツとの間を往復した最大の理由は、両国の優れた軍事技術、必需原料、重要人物の輸送にあった。とくに、日本が欲しかったのはレーダー技術であった。

書籍「幻のレーダー ウルツブルク」

余談になるが、このドイツ製レーダーの導入に関係した一人が、元シャープの副社長で、後に国際基盤材料研究所を設立し、現在はその会長の職にある佐々木正さんである。「深海の使者」には名前が出てこないが、最近本人が書かれた何冊かの本の中で、戦時中にドイツに出かけた体験を書かれている。佐々木さんは京大卒業後、逓信省電気試験所に勤務したが、軍部から真空管の製造を命じられて、川西機械製作所(後に神戸工業、富士通テン)に転籍し、昭和39年(1964年)にシャープに移り、電子レンジ、電卓、液晶、LSI、太陽電池などの開発指導をされ、副社長まで勤められた。現在(2002年)87歳ではあるが、主にナノテクノロジーの開発指導に携わっておられるほか、技術交流会「共創クラブ」を主宰し、多くの中小企業の技術指導をされている。