佐々木さんは、かってドイツに留学された経験を買われ、軍部からウルツブルク大学に出向き、レーダーの研究をするよう命じられる。ドイツ行きはシベリア鉄道を利用した陸路だった。ウルツブルク大学でレーダーの技術を習得するとともに、関係材料を携えて、当時、ドイツが占領していたフランスのロリアン港を潜水艦で出港して、日本に帰着した。昭和17年からドイツが連合軍に降伏するまでの間に、両国を航行した潜水艦は日本の伊30号以降、8号、34号、29号、52号の5隻、一方、ドイツからは、U511、U1224、U234が日本向けに出港した。また、インド洋で落ち合い、物や人を洋上交換し、それぞれ帰国したこともあった。

佐々木正さん。

日本とドイツ(正確にはドイツ領フランス)間は約3万Km。アフリカ南端を回り、最も危険な地帯であるドーバー海峡を通るルートであり、2カ月以上の航海であった。それでも、帰途インド洋を横断し、せっかく日本の占領地域まで近づきながら、機雷に触れて沈没してしまったケースもあり、無事、日本までたどり着いたのは、伊号では8号のみであった。

一方、U511、U1224は日本海軍に譲渡され、それぞれ呂500、呂501と命名されたが、呂501は出発後大西洋で沈められた。また、U234は日本への航海途中にドイツが敗戦となり、連合軍に拿捕されている。「深海の使者」には、レーダーの資料や、機材の運搬の話しはたびたび登場するが、ドイツから乗船した人の全ての名前が記されているわけではない。

佐々木さんには、数年前に詳しいことを話していただこうとしたが、差し障りがあるらしく実現しなかった。多くの犠牲者を伴ったこの大航海については思い出したくない嫌な事柄なのだろう。ただ、佐々木さんの書かれた本から推測するとU511で帰国したものと思われる。佐々木さんは、日本のレーダー技術について「日本でも、当時、名古屋に設置したレーダーで、沖縄から飛び立った飛行機を捕捉することはできた。しかし、米軍機が金属箔を撒きながら飛んでくると、その中の飛行機の位置がつかめなかった」という。

その敵機の位置を知る技術を習得するためにウルツブルク大学に行った。しかし、そこでいわれたのは「猿でも毛の中の虱(実際は塩の塊)を捕るではないか。金属箔の中の飛行機を見つけられない日本人は、猿より劣るのか」との皮肉だった。戦後、佐々木さんは「佐々木ロケット」といわれるほどの猛烈な研究者になる。思いついたら目標に向かって突っ走るからである。佐々木さんは「ウルツブルク大学での屈辱が、その後の研究生活のバネになった」と語っている。

話しがそれたが、東洋工業では戦時中、そのレーダーに使用するディッシュの製作やドイツ製より性能の劣る関連部品の改善に苦労し、完成した時にはすでに終戦だった。ただし、戦後のマイクロ波多重通信が盛んになった時にはその技術が役に立ったという。

太平洋戦争中、ドイツと日本を行き来した潜水艦の航路。

昭和20年8月6日。広島市に原子爆弾が投下された日である。「上級学校への進学者は準備のため、休暇を取れ」といわれたのが8月の3日か4日だったという。このため、井原さんは当日は自宅にいた。「快晴で暑い日だった。パンツ1枚の裸だったが、隣の娘さんが驚きの声を出した。何かと思って窓際に駆け寄ったら虹のような輪が広がってきた。ガラス窓が割れ、たんすが倒れたが、私はそれを知らずに意識を失ってしまっていた。気がついたら、八畳の部屋の真中に座っていた。爆風で飛ばされたのだろうが、よく怪我をしなかったものだと思う」とこの時の記憶は鮮明である。

住まいは爆心地から約5Kmだった。翌日、学校が心配となった井原少年は広島市内へ歩いていく。あちこちに死体が散乱する悲惨な光景に耐えられず早々と引き返すが「後から聞いた話では、母校のプールは、迫り来る業火の熱さに耐えかねて、飛びこんだ低学年の生徒の死体でいっぱいだったという」と、悲しい出来事を語ってくれた。