8月15日終戦。中学5年の修業年限は戦時特例措置により、5年から4年に短縮され、5年生とともに卒業。約1年半の勤労動員の対価として、井原さんは150円を受け取る。早速、念願の1-V-1の短波受信機を作ろうと思い「錨」のマークのついたUZ-6D6、UZ-6C6、UY-76のST管を町外れの電気店で見つけて購入、値段はちょうど150円だった。「その店では海軍の倉庫から取ってきたと思われる1Kwガソリン発動発電機が150円で売られていた。買わないかと勧められる。転売すれば儲かったかもしれなかったが断った。終戦直後は混乱が激しく、値段もでたらめだった」と当時の様子を語っている。

昭和21年(1946年)4月に再び父親の転勤のため、矢野町(現在は広島市安芸区)に転居する。焼け野原にもぼつぼつバラックが建ち始めていた。元・海田市陸軍運輸部に英連邦インド軍部隊が駐留してきており、井原さんは炊事所のコックのアルバイトを始めた。「1日3食が出るのはありがたかったが、インドカレーの辛さにはまいった。用便のたびに肛門までひりひりした」ことを思い出している。次いで、豪州(オーストラリア)軍の管理するビール工場で積み出しのアルバイトをした。「ビール箱の数を数えるのであるが、我々が暗算で集計するのに対し、彼らは箱にいちいち印をつけて数える。正確であるが作業スピードは遅い。国が違えばやり方も違うことを知らされた」という。

井原さんの師範学校時代

全国各地でも同じ現象が起きたが、戦後は旧軍隊の物資がたくさん出回った。広島では焼け野原となった駅前広場で売買され、その放出品を漁る人々で賑わった。井原さんはその中から「軍事極秘」と銘打たれている98式7号超短波移動無線機を買った。周波数250~300MHz、出力0.1W。中学3年生の時、現在は広島市の市街地となってる吉島陸軍飛行場整備の勤労奉仕に行ったことがある。その時、陸軍技手がテントの中で通信実験をしていた通信機だった。生産台数はわずか250台の珍しいものであったことを後で知ったという。

この頃、井原さんはあちこち歩き回わり、海軍兵学校の教科書「無線教程」や、「CQ創刊号」を買った。CQ誌では、大河内正陽(J2JJ)さんの「自作通信用受信機」や森村喬(J2KJ)さんの「アマチュア用送信機の設計」などをくりかえし読んだ。さまざまな真空管を集め、携帯型のラジオを作った。近所のラジオを修理したり、占領軍のMT管6本を使用した小型電池式短波スーパー受信機も不足の球、部品を探し出して修理した。ちなみに、森村さんについては「あるアマチュアOTの人生」として「週間BEACON」の別の6回連載で書かれている。

井原さんはさまざまな実験にも熱中した。エーコン管UN-955を使いVHF反結合発振器を作り、コイルを取り替えて発振周波数を変えるとネオン管の発色が変わるのを楽しんでいた。「ところが、ある周波数にした時、飛んでいる米軍の戦闘機の爆音が大きくなったような気がしたので外に出てみたところ、戦闘機が我が家に向かって突っ込んでくる。慌てて家の中に飛び込んでスイッチを切ったこともある」。井原さんは「自分の発振した周波数が戦闘機搭載機器が使っている周波数と同じだったのではないか」と推測している。

井原さんは旧陸軍の地2号受信機も手に入れ、分解掃除し、真空管を入れて修理したこともある。

無線機の研究に夢中になり、この後、旧陸軍の94式3号丙無線機の送信機を手に入れた。周波数は0.4~5.2MHz、出力5W。ラジオ放送終了後、この通信機を使用して放送バンドでレコードを流したりする実験をこわごわとした。いわゆるアンカバーであった。「若気の至りであったが、実際に送信機をいじる中でその構成や高周波増幅回路の中和などの操作法を理解したものである」と井原さんは振り返る。この時の電波は約20Km離れている安佐郡祇園町に住んでいる級友に聞いてもらったが、非常に良く聞けたという。