アンカバーは不法な行為ではある。しかし、当時の日本ではアマチュア無線の再開が遅れており、全国各地で免許再開を待ちわびるアマチュア無線ファンは、業を煮やして電波を出した。同じ敗戦国のドイツでは、意識的にアンカバー交信をしたことが免許促進に結びついており、その情報を得た人達の中には、ドイツに習って、組織的にアンカバー交信をしたケースもあった。しかし、日本ではそれは通じず、結局、アマチュア無線技士の試験は昭和26年まで待たなければならなかった。

昭和23年(1948年)、井原さんは広島師範学校を卒業、海田市小学校を皮切りに教師の道を歩むことになる。定年までの長い“教師人生”のスタートであった。

師範学校を卒業し、井原さんは教職に就く。井原さんの授業風景。

井原さんは昭和28年にアマチュア無線局を開局するが、ここでしばらく中国地区の戦前のアマチュア無線について、その歴史を記してみよう。現在、わかっている戦前の中国のハムは10名。J4以外に戦前の他のコールサインを持つ人が3名もおり、この比率の高さは他のエリアにはない特徴といえそうだ。東名阪に比べるともともとハムの数は少ない。しかし、広島には明治時代の日清戦争時に「大本営」が置かれ、戦前には第五師団司令部、海軍兵学校、呉海軍工廠、武器弾薬工場などが広島周辺にあったため、当然、軍関係、民間の軍需関連企業の転勤者が多かったのが理由であろう。

その中で、最も早く免許を取得されたのは阿久澤四郎(J4CC)さんであった。阿久澤さんは昭和2年(1927年)9月、わが国初の「短波私設無線電信無線電話実験局」の免許が行なわれ8名が許可となった時、前橋市に住んでおられた阿久澤さんもその一人として、JXDXのコールサインを与えられる。昭和3年10月にエリアコード制が取り入れられることが官報で告示され、阿久澤さんはJ1CYとなる。実際には新コールサインは翌4年4月1日から改定された。阿久澤さんが広島県の安佐郡に移転し、J4CCを取得たのはこの年の6月18日であり、恐らくあわただしい切り替えであったと思われる。

阿久澤さんはJARLの活動にも積極的であり、当時のJARLニュース(当時はニウスといった)にしばしば登場する。JARLが独立したニュースを発刊し始めたのは昭和4年6月であり、笠原功一(J2GR)さんら関西のハム達が中心となって発行された。手書きの謄写版印刷であり、当時で100部以上が発行されていた。そのNO5、10月2日号に6月18日付けでJ4CCの免許取得の報告が載せられている。住所は安佐郡長束村(現在の広島市安佐南区長束)であり、同時に8月28日から31日までの4日間、感度試験を実施したことも報告している。その後もしばしば阿久澤さんの名前をJARLニュース上に見ることができる。

戦前の「JARLニュース」。昭和9年には活字になっていた。右下に山陰地方の受信局・大津武義さんの投稿記事がある。

当時、関西支部は東海以西のエリアをカバーしていた。したがって、J2、J3、J4、J5は全て関西支部に属していたことになる。昭和6年1月に大阪の土佐堀にあった住友クラブで、その関西支部20回集会が開かれた。J4からは阿久澤さんの他、岡田誠一(J4CE)さんも出席した。この頃から、岡田さんの名前がJARLニュースに登場するようになる。岡田さんは昭和5年の3月5日に免許を取得、昭和6年(1931年)4月3日に名古屋市中村公園内記念会館で開かれたJARLの第1回総会に出席している。四国、九州地区からの出席はなく、西からは最も遠い参加者であった。この年の6月25日号に、岡田さんは京都に転居すると報告しており、事実、一時はJ3DTのコールサインを持ったこともある。