戦前、大連に住んでいた永井さんは「当時、大連には個人としてJ8PG(伊藤米次氏)など3局があったと記憶する」と「本日モ晴天ナリ JARL中国地方40年のあゆみ」に書いている。事実、調べてみると大連のハムには、この他に村山元夫(J8PJ)さん、平川謙一(J8PK)さんがいた。「本日モ晴天ナリ」は、平成5年にJARL中国地方本部の創立40年を記念し、井原さんが中心となって発刊したものである。そのなかで、永井さんは太平洋戦争開戦前後の想い出を語っている。免許取得後、東京の中野や上野広小路のラジオ部品店から通信販売で部品を取り寄せ、木の板の上に部品を配置した「まな板式」の送信機を作る。しかし、太平洋戦争勃発とともに運用停止を命じられる。永井さんは「かなりの投資をし、夢と希望をつないで開局したものを(わずかな期間)で停止されたのでは残念」と思い、仲間と図って「国防無線隊を組織し、国家の大事に参画したい」と嘆願書を関東軍司令官に提出した。

JARL中国地区40周年を記念して発行された「本日モ晴天ナリ」

内地(日本国内)では、各地に「愛国無線通信隊」や「国防無線隊」が設立され、多くのハム達が活躍している話しを聞いていた。永井さんは、外地(日本の統括地)でも同じような組織を作ることが国の役に立つと考えたのである。ところが、嘆願書は職場に回ってきてしまい、上司に「国が行なった処分に反抗するとは何事か」とこっびどく叱られた。もっとも、内地でもこれらの組織は開戦と同時に実質的に解散状態となっていた。

戦前の送信機--堀野治助(J4CT)さんの自作機と本人

中国地区の戦前のハムについては、手に入った資料ではこの程度のことしかわからず、それぞれのハムの方々がどのような運用を行なったのかの記録がない。「本日モ晴天ナリ」でも書かれている戦前の歴史は関東、関西の話しが中心であり、中国地方については、戦前のハム6名の個人名が記されている他、わずかに思い出話が紹介されている程度である。

藤室衛(JA1FC)さんが平成8年(1996年)頃、苦労して作成された「戦前のハムリスト」ではJ4個人局は19局であり、このうち四国の7局、中国の10局がわかった。別の連載「四国のハム達 稲毛さんとその歴史」でも触れたが、戦前はJ4のプリフィックスは中国5県と四国の香川、愛媛の2県に適用されていた。このため、岸上英三郎(J4CU)さんと樋端薫(J4CW)さんの2名の所在地が中国地区なのか、四国地区なのか容易にわからず、最近(2002年春)になって、ともに香川県であることが判明した。

戦後、昭和26年(1951年)6月、ようやく第1回アマチュア無線技士の国家試験が行なわれた。広島では第1級2名、第2級8名が受験したものの合格者なし、松江では第1級3名、第2級2名の受験者があり、それぞれ2名と1名が合格している。戦後最初の予備免許は昭和27年7月28日に全国の30名に与えられているが、その中に中国地区の人名はない。中国地区の最も早い予備免許は昭和27年9月22日の国澤忠治郎(JA4AA、島根県)さん、塩見和正(JA4AB、岡山県)さん、松島二郎(JA4AC、鳥取県)さんの3名である。開局は国澤さんが最も早く、その年の11月20日である。このあと、吉野清美(JA4AE、広島県)さんが28年1月16日、永井茂(JA4AF、鳥取県)さんが同年2月8日、徳田甚衛(JA4AJ、岡山県)さんが2月25日にそれぞれ開局するなど、急速に中国地区のハムは増えていった。

戦後中国初のハムとなった国澤さん