井原さんは27年に第2級アマチュア無線技士の試験に合格、翌28年3月30日に無線局落成検査に合格しJA4AOとなる。当然、送信機、受信機は自作であり、送信機は水晶ピアース発振、終段増幅管にはUY-807を使用したが「今でも忘れないのは送信機の終段増幅管UY-807の寄生発振であった。一晩中あれこれやったが駄目であった」と今思い出している。翌日、雑誌で50オームの抵抗に4、5ターンのコイルを付けたパラスチック・サープレッサーをプレートキャップに付けると良いと知り、一挙に解決させた。アンテナは庭の板塀に沿わせて立てた高さ7mばかりの竹竿2本の間に8mほどの導線を張って作り上げた。出力は10Wであったが、BCI(ラジオ受信機妨害)を引き起こしてしまった。

当時、一般家庭で使われていたラジオは「並4型」と呼ばれていた直接再生検波の安い商品。近所のラジオに「CQ、CQ、こちらはJA4AO、JA4AO。どなたかお聞きでしたらご応答下さい」と変な‘放送”が入ってしまう。「ラジオ放送が楽しめない」と怒鳴り込まれたこともあった。「7MHzのウェーブ・トラップを作ってアンテナ回路に挿入したりしたが同調回路がひとつしかない“並4’では良い効果は現れなかった」と、今では想像しにくい当時の様子を語る。

初期の頃の自作送受信機

昭和20年代のアマチュア無線にはこのように問題が多発していた。同時に、別の問題も少なくなかった。戦前、アマチュア無線をやっているのは他国のスパイだといわれたりしたが、戦後もしばらくはそのように見られた。井原さんも不思議な体験をしている。ある時「お宅はアマチュア無線をやっておられるようですが、どんな所と交信できますか、私もやりたいので教えていただけますか」と見知らぬ青年が訪ねてきた。井原さんは喜んで話を始めたが、少しもハム用語など知らないし、おもしろさを話すが少しも乗ってこない。「シベリアの方とできますか。いつごろ聞こえますかなどと聞くだけで、他のことには興味を示さなかった。どうも変な人だなと思い、しばらく話して帰ってもらった」という。

その頃、井原さんの勤務していた幟町小学校のすぐ西側に特審局(現在の公安調査局)があった。ある時、2階の教室から井原さんが何の気なしにその方を見ていたところ、その青年がその建物に入っていった。ほどなくして、井原さんのお父さんが、会合の席である町長から「おまえの息子はスパイだろう。警察が調べに来たぞ」といわれた。井原さんもようやく自分が疑われており、青年が訪ねてきた目的がわかったという。

この頃には、多くのハムが警察官の訪問を受けていた。「当時、三橋事件などわけのわからぬ事件か報道されていたが、われわれハムもその類と見ているのかと感じ、けしからんことだと腹が立った」と井原さんは今でも腹立たしい思いである。三橋事件とは、昭和26年に新潟の海岸に無線機を隠し、取り出してはウラジオストックと交信していたとされる事件である。昭和29年にはJARL本部も次ぎのような通達を出した。「すでに新聞紙上に報道された通り、警察官による不法調査の事実が全国各地で起こっているようでありますので、本部として適切なる措置をいたしたいと存じますので、具体的事実を詳細にご連絡下さい」

開局1年後の昭和29年(1954年)5月に、井原さんは50MHz帯の増設変更申請を行なった。その時に自作した送信機もジャンク(ガラクタの部品)を集めて組みたてたものであり、第2高調波が規定値より大きく、テレビ受像機への妨害の原因となり、その対策にも苦労した。昭和30年3月12日午後6時23分。井原さんは「この日を忘れない」という。

7MHz帯の電話(音声)でCQを呼んでいると海外局が英語で応答してきた。初の海外交信に井原さんは「どぎまぎしなからよく聞くと米国のW6AMだった」。W6AMは、カリフォルニア在住の世界的にも有名なハムのビン・C・ワレスさんであり、広大な土地に世界各地に向けた何本ものロンビックアンテナ(指向性アンテナ)を立てていることで知られていた。井原さんは有名なハムであることを雑誌で知っていただけに「何をしゃべったか覚えていないが、汗をかきながら夢中でQSOを終えた」という。貧弱なアンテナ、10Wの小出力で太平洋を電波が渡ったことに感激した井原さんは、海外交信への願望を強めることになる。

3代目リグを見に来た兄弟