井原さんの海外との交信願望は強まる一方であったが、DX(遠距離交信)に使われるのは14MHz、21MHz、28MHzがメインであり、当時は2アマには、これらの周波数帯も電信(モールス通信)も許されていなかった。この頃の日本のハムは全国で約2500局、その大部分が2アマであり、狭い7MHz帯にひしめいているのが実情であった。「アマチュア無線の醍醐味をもっと味わいたい」と井原さんは昭和30年(1955年)後期の1アマ国試に挑戦することを決めた。

モールス符号の習得のため、夏休みに学校からテープレコーダーを借りてきて、欧文、和文受信を学んだ。井原さんは、昭和28年の開局後すぐにプロの第2級無線技術士の国試に合格していた。その時、特に受験勉強をせず、無線雑誌の乱読で得た知識で合格しており、今回も「無線工学くらいは・・・・」と高をくくって試験に臨んだ。ところが、自信のなかった和文の通信術は合格したものの、無線工学で失敗した。初心に帰って基礎から勉強をし直し、翌31年後期の試験に合格を果たしている。

昭和33年3月、1級局への変更検査に合格。再び、送信機、受信機を自作した。送信機は終段807パラレル、変調は807PPによるプレート・スクリーン同時変調、受信機はデリカのハムバンド・コンバーターを付加して作り上げた。アンテナは高さl3mのJ型を作り14MHzに挑戦した。この装置で、5年後の昭和37年(1962年)4月に「DXCC・100カントリー」になった。「海外との交信のためにはもっとしっかりしたアンテナが欲しい」と、井原さんは高さ16m、末口2lcmの電柱を手に入れ、14MHzフルサイズ3エレメント八木アンテナを自作して乗せ、エモテーターで回転できるようにした。この頃は、夜8時頃に寝て12時ごろ起き、朝の4時ごろまで交信し、再び7時ごろまで寝る生活を続けた。このため、睡眠不足で本業に差し支えるようなことはなかったという。

DXCCセンチュリークラブに認められた

巨大な八木アンテナは近所から注目された。近所の人達はアマチュア無線用アンテナとは気づかず「東京のテレビも写りますか」「儲かりますか。遠くの色々なテレビが見られていいですね」と、アンテナを見上げてたずねたという。昭和37年12月には「DXCC 125WORKED/105CONFIRMED」となった。ARRL(米国アマチュア無線連盟)に申請し、翌年に念願の「DXCC AWARD」を受領することになる。

さらに、欲望が膨らみ「7MHzで海外まで飛ぶアンテナが欲しくなった」井原さんは、狭い場所でも配置できるアンテナを作る。アンテナ柱の作業台に7MHz用センターローディングコイルを置き、短縮ダイポールアンテナを作った。給電部の高さは10m、全長は18mのものであった。このアンテナは狭い宅地でも張ることができ、良く飛ぶということから「CQ ham radio」誌にも紹介された。

ところで、井原さんとJARL(日本アマチュア無線連盟)とのかかわり合いは早かった。戦後、JARLはアマチュア無無免許の再開の行方がまったくわからなかった昭和21年8月に、早くも再結成されていた。中国地区では昭和28年5月に岡山県の有志の呼びかけにより中国支部創立の準備会議が岡山市の「まきび荘」で開かれた。

広島からは井原さんの他、吉野清美(JA4AE)さん、畳谷昭範(JA4AL〉さん、石田暢俊(JA4AG)さんが参加、島根からは国澤忠次郎(JA4AA)さん、岡山からは近藤房敦(JA4AI)さん、徳田甚衛(JA4AJ)さんが出席した。それまで、中国地区は関西支部に包含されていたが、この会合で中国支部として独立することを決め、同時に役員を選出した。支部長には国澤さん、副支部長には吉野さんが選ばれ、井原さんは庶務幹事の一人として中国支部報の編集・製作などにたずさわることになった。これを契機に井原さんはJARLの活動にも積極的に取り組むことになる。

昭和28年開かれた第1回中国支部大会