昭和28年12月現在の全国のハムの数は1196名であり、中国地区はその約7%、80名であった。発足した中国支部は「中国支部会報(2号目からはJARL中国支部NEWSに改称)」を発行、その2号に国澤支部長は就任の挨拶を掲載し「現免許局は、これから開局しようとされる方の良き相談相手になって欲しい」と呼びかけた。支部大会は、28年10月18日に広島市の「広島教育会館」で第1回を、29年5月2日に米子市商工会館で第2回を開催したが、その後32年まで開催されることはなかった。原因は支部が分裂状態となったためである。鳥取、米子、松江、石見の地区グループが山陰クラブを結成し「中国支部は事実上解散している。本部はJARL山陰支部を認めて欲しい」と要望、支部大会の開催は不可能となっていた。

前に触れた「本日モ晴天ナリ!」では、このへんの事情を「急カーブで増加する局数、山陰と山陽との交通不便による連絡の難しさ、陰陽両地方のアマチュア層構成の違いなどにより、スムーズな支部運営は困難な状態となっていった」とだけ説明している。井原さんはこの分裂について「広島、岡山などの山陽地方は戦後に若いハムが増えた。それに対し、山陰地方の米子には戦前、海軍の監視所があり、また、漁港で有名な境港は大型漁船の基地であるなど、山陰地域には戦前からプロ無線技術者が多かった。そのベテランの多い山陰地域のハムにとっては“山陽地域の若造”という思いがあった。それが分裂の大きな原因の一つだった」と指摘している。

昭和29年11月名古屋で開催されたJARL総会で、当時の中国地方理事の永井茂(JA4AF)さんは、事態解決のためにひとつの提案を行なった。それは、中国支部を解体し、岡山、広島、山口、山陰の4支部に分割、連絡機関として中国支部連絡協議会を発足させるという内容であった。しかし、LARLが検討している本部機構改革案によって、その解決が可能という理由で否決された。翌年9月の大阪総会でも再び否決された。

井原さんの授業風景(理科の授業を担当)

JARL本部もこの事態を心配して、31年になると梶井謙一(JAIFG)理事長(現在の会長職)が支部組織再建の話し合いのために広島を訪れ「支部が分裂していては力が弱くなる。分裂は困る」と訴えた。このような働きかけもあって、昭和32年3月の支部再建会議、10月の支部大会を経て問題は解決された。その第3回となる支部大会では、支部長に梶山茂樹(JA4BT)さん、副支部長に高橋百之(JA4HJ)さんなどの新役員が選出された。

この大会では、わが国のアマチュア無線史の上で画期的なできごとがあった。目の不自由な砂本勉さんが出席したのである。砂本さんは自作の短波受信機を作り、アマチュア無線の存在を知り、次いで送信機を自作して国家試験を受験する申請をしたが、当時の電波法では認められなかった。大会では「実力があればハムの資格が得られるよう関係方面に請願書を出す」ことを決議。その後の関係方面への働きかけの結果、昭和34年(1959年)に砂本さんはJA4VBとなる。この34年には新制度による初の国家試験が行なわれたが、同時に目の不自由な受験者が急増し、中国地区では7名が受験し全員が合格した。

昭和32年の中国支部総会。前列右から2人目が砂本さん。

「目の不自由なハム第1号」となった砂本さんは、健常人と同様に送受信機を組立てることのできる技術を持っていた。その驚くべき能力について、山口県の田村徳雄(JA4LK)さんが「本日モ晴天ナリ」で詳しく紹介している。それによると、ハンダ付けの仕方は「接続する両端を良く磨き、離れることのないように曲げたりして接合し、ペーストを指先で薄く塗る。左手で糸ハンダと接合する物(線類)の片方を重ねて持ち、ハンダの先端が接合部に当たる位置にする。右手で小型のハンダごてを持ち、こて先を左手に近づけることによってこて先の位置を確認、接合部までこてを滑らせこて先を下ろす。ハンダの溶ける状態を音で判断しつつ、接合時期を判断してこてを離す。その後、手先で接合部を確認し、接合の両端を引っ張り、接合を確認。さらに、自作の盲人用テスター(針メーターでなく、音が出る)により、関連部位を確認し、誤った接合、短絡がないかをチェックする」というものである。