JARL中国支部が発足した20年代の末、広島市に新人ハムの集まりである「JARL広島クラブ」が発足した。会長は吉野さんであり、毎月1回市内の舟人川口町にあった吉野さん宅に集まり、互いに技術資料、交信情報を交換、親睦を図った。井原さんも加入したが「ハムとしてスタートしたばかりの若者だけに共通の問題や経験を出し合い、非常に参考になった。また、仲間との絆も強まった。私はそのミーティングが待ち遠しかった」という。その後、中国各地ではクラブが次々と誕生し、昭和34年9月にはその数は15に達している。

井原さんは、昭和41年の支部大会で支部長になった。写真は、41年の支部大会。

昭和37年(1962年)、中国支部にDX、SSB、法規の3分科会が設けられ、井原さんはDX分科会の責任者となるとともに、評議員に就任。翌年にはJARL監査指導委員制度が生まれたのにともない、広島地区の委員となる。昭和41年には理事に井原さん、評議員に国澤さん、児島大地(JA4BS)さん、山村耕一(JA4CF)さん、吉岡謙(JA4KI)さん、田村徳雄(JA4LK)さんが選ばれ、5月22日のJARL通常総会で井原さんが理事兼中国支部長に就任した。昭和47年の地方本部への組織変更にともない、その地方本部長に就任し、今でもその職にある。

ところで、戦後再開されたアマチュア無線の技術変化の最初がSSB(シングル・サイド・バンド)方式であった。昭和30年代前半までのハムは、送受信機を自作して使ってきた。このためSSB方式にもこぞって挑戦したが、ほとんどのハムが自作をあきらめざるを得なかった。SSB方式はすでに大正年代の末に開発され、一部で実験が行なわれ、昭和初期には海外で、さらに国内では昭和10年代に実用化が始まっていた。戦後、刊行された「CQ ham radio」の創刊号にもSSBの記事が掲載されており、その後、昭和30年代に入ってからは、毎号「SSB Section」の欄が設けられるようになったという。

それまで送受信機を自作していたハムも、当然のことながらSSB受信機に取り組むことになったが、簡単には作れなかった。SSB信号を発生させるためにはフィルター法と移相法があるが、ともに良好な変調特性を持たせるためには測定器が必要であり、その測定器から作らなければならなかった。井原さんは無線機メーカーが発売したSSB発生器を買い求めて自作に挑戦したが「自分の技術未熟のためかうまくできなかった」という。そこで、昭和39年(1964年)にアマチュア用のSSB送信機を購入することになる。

すでに、世界のハム達はSSBを駆使して交信しており「高価な買い物であったが思いきっての購入だった。同時に、私にとっては始めてのメーカー製商品となった。使ってみて、それまでのA3波より小電力で、かつクリアーにQSOできるのに感心したものである」と、当時を思い出している。

アイコム(当時は井上電機製作所)は、昭和42年にSSBのHF帯第1号機IC-700T/700Rを発売した。

翌昭和40年11月14日、東京で開催されたJARL評議委員会終了後、井原さんは、弟の健策さんに案内されて晴海埠頭に接岸されていた砕氷艦「ふじ」を見学した。主に南極観測隊の送迎に使用される同艦は、それ以前に使用されていた「宗谷」の砕氷能力や設備が古いことから新建艦されたものであった。井原さんは全艦いたる所に林立するアンテナや通信室にずらりと並んだ送受信機を興奮して見て回った。「その中の1台だけでももらえたら、とうらやましかった」という。偶然にも艦上のアンテナの一部は、当時三菱重工業に勤務していた現JARL会長の原昌三(JA1AN)さんらが苦労して設計したものであった。そのころの話しは、原会長の「私のアマチュア無線人生」の第15回に書かれている。

井原さんにとっての悲しい思いでは、その健策さんが平成7年(1995年)の春に亡くなった事である。「九州工大電気工学科時代には中国駅伝、九州駅伝で活躍し、卒業後は大手電気メーカーに勤め、ドイツに留学したりして活躍していた。その弟が59歳の若さで去った。努力家で温和な弟であった。年をとった今、彼の心中を思うと未だに涙が止まらない」と顔を曇らす。