話題が変わるが、中国地区もたびたび災害に襲われ、その都度ハムが活躍した。その活躍振りは時には寝食を忘れ、また、ある時は自宅が被害にあっているのも省みないほどであった。「本日モ晴天ナリ」には、島根県で発生した水害の内、4回のハムの活躍振りが紹介されている。最初の記録は、昭和39年(1964年)の夏の水害である。この時、7月16日からの集中豪雨で活躍したのは出雲市の多々納勇(JA4KS)さん、直良潔(JA4LP)さん、山根榮吉(JA4AQI)さん、新宮弘吉(JA4CFB)さん、松江市の長岡茂夫(JA4FC)さん、岡本俊夫(JA4FN)さんらであった。

アマチュア無線に対する認識のなかった出雲市は、多々納、長良さんらの非常通信発動の申し入れを断る。二人は山根さんに基地局を依頼し、孤立している加茂町に向かうが、道路が寸断されていたため、一度松江市まで引き返す。長岡、岡本さんと相談した結果、徒歩を覚悟で再度出発し、午前3時過ぎに現地に到着。加茂小学校に無線局を開設し、3.5MHzでコールしたところ新宮さんが受信し、公衆電話を使用して山根さんに知らせる。その後、2日間にわたり被災地の状況を県に知らせ続けた。

昭和47年(1972年)7月11日、島根県各地は梅雨前線による豪雨に見舞われていた。アマチュア無線赤十字奉仕団事務局長を務めていた矢野強(JA4KUH)さんが、県知事から孤立した桜江町への出動要請を受けたのは18日。直良潔(JA4LP)さん宅に基地局を設け、翌14日午前中に3人で3.5MHz無線機を携えて日赤教護班とともに出発。途中の道路は寸断されており、佐々木正道(JA4KBY)さんなどの道路情報を参考にしながら、夕方現地に到着。行政無線の整備が立ち遅れていた当時、頼りになるのは警察無線のみであり、他に情報伝達の方法がなく、矢野さんらが依頼を受けた通信量は膨大であった。それだけに、アマチュア無線の存在は被災地の住民達に安心感を与えたという。

島根県の「47.7豪雨災害」でハムは大活躍をした。

現地からの交信は東京・日赤本社でも傍受しており、現地の状況を常に掌握していたため、救援物資・医薬品などを県支部が要請する頃には発送準備ができていたという。翌15日には、藤江貞生(JA4SHX)さんも加わり、川戸、川越地区でも住民の情報網となった。この他、この水害では江津市の佐々木正道、俊行(JA4NFM)さん親子、国澤忠治郎(JA4AA)さん、船原隆士(JA4DQJ)さん、平田市の河原喜久夫(JA4RQJ)さん、邑智町の落合政輝(JA4IFU)さん達が活躍した。

昭和58年(1983年)7月12日、13日に島根県西部を襲った「58年7月豪雨」では112名の死者・行方不明者がでた。日赤は益田赤十字病院に向けて食料品の海上輸送を決め、日赤職員の三島一徳(JH4EDI)さんと藤江貞生さんが境港の海上保安部の巡視船に乗り込み、大浜漁港経由で被災地への輸送を支援。その後はアマチュア無線奉仕団が車5台で国道54号を南下し、中国縦断道を通り六日市から益田へ迂回した。三隅町では山が崩れ、道路が寸断、有線回線も途絶した中で多数の死者がでた。大森義明(JA4CJ)さんは三隅アマチュア無線クラブ(JH4YRG)とともに死亡者搬出、孤立者救出、救援物資の輸送などを支援。自家用のディ-ゼル発電機は10日間回し続けられた。

昭和58年の「58.7豪雨災害」では、死者・行方不明者112名を出した。

さらに、63年(1988年)7月には浜田市が豪雨災害に見舞われる。浜田ラジオクラブ(JA4YOJ)に対し、市の対策本部より非常無線通信運用の依頼があったのは、7月15日午前8時半。大久保敦司(JA4BRG)さん、藤田正児(JR4WRD)さんが対策本部に移動。浜崎健一(JH4JOR)さんは自宅で中継役となり、大畑増雄(JE4ISH)さんはバイクに乗って情報収集。武田俊夫(JA4UDR)さんは救援物資を積んだヘリコプターを追いかけて、物資輸送の支援を行なった。東(JE4BFN)さんはヘリコプターのパイロットとの連絡を担当した。また、三隅町では神田博道(JF4JFB)さん、金岡(JG4ISN)さん、峠山(JG41SU)さんらが活躍。一方、栗原(JF4TYU)さんは長見地区で負傷者搬出を支援した。