これまで、島根県の水害でのアマチュア局の活躍を記してきたが、当然のことながら他の県でも同様に大きな水害があった。広島県では県北部に位置する三次市が過去何度も水害の被害に遭っている。三次市周辺で馬洗川、西域川、神野瀬川の3川が合流し、狭い峡谷を流れる江の川となるため、しばしば氾濫してきた。特に、昭和47年(1972年)7月には、後に「昭和47年7月豪雨」と呼ばれる水害が発生し、死者22名、家屋の被害18,000戸を記録している。江の川の堤防が決壊し、濁流が市内に流れ込んだ。周辺のハム達は協力して被災地に入り込み、被災住民の通信連絡にあたった。

アマチュア無線が開始され、国策により停止された戦前。そして再開されてから今日まで、中国地区のアマチュア無線の歴史は淡々と進んできたように見えるが、このように幾多の災害で活躍されたハムもいる。JARLの活動に日を送ったハムも、本来の趣味としてのアワードで活躍されたハムもいる。井原さんもまさにその一人であった。わが国アマチュア無線の免許制度としては画期的な「養成課程講習会制度」ができたのは昭和40年。中国地区では翌年の8月3日から6日まで第1回の講習会が実施された。国澤さんが管理者となり、島根県の江津高校で行なわれた。井原さんは「駅前の木賃宿に泊り込み、4日間ぶっ続けで講習したこと思い出す。」という。

昭和45年にはSSBの普及を目的に、広島市の日本生命ビルで「SSBの集い」を開催した。予想に反して350名ものハムが集まり超満員となった。石田(JA4AG)さんが「HFモービルの話」、松村(JA4BJO)さんが「DXの楽しみ」、そして井原さんは「DXのマナー」を話した。数日前にQSLが300カントリーに到達した松村さんは、その苦労話をし、出席したハムからその執念に対し、大きな拍手をもらった。井原さんは当然ながら退職後もDXを続け、平成8年(1996年)8月に3.5MHzバンドでDXCCを達成した。3.5MHzはDXCCを獲得するのは難しい周波数帯であるが、これまでの長い年月こつこつと続けてきた成果だという。

昭和47年(1972年)に中国支部長に就任した井原さんは、引き続き中国地区本部長を務め、すでに30年になる。そして「後進に譲るつもりでいたのがいつの間にか今日になってしまった。」とこれまで歩んできた道を振り返る。この間、出雲市(昭和50年)、福山市(昭和62年)、山口市(平成9年)でのJARL通常総会を取り仕切った。また、各県の支部でも毎年活発な行事が行なわれてきたが、井原さんはできる限り出席してきた。なかでも瀬戸大橋の完成を記念して、昭和63年(1988年)3月から岡山県倉敷市児島で開かれた「瀬戸大橋博’88」会場での岡山特別記念アマチュア無線局の運用などは、忘れられないイベントであったという。

同時に、これからのアマチュア無線のあり方にも思いをはせている。井原さんはこれまでを振り返って「アマチュア無線をやっていて良かった。教職にあって、それなりにつらいことも悩みもあった。しかし、家に戻りリグの前に座ると仕事のことも忘れてしまう。ストレス解消になった。もし、私が無線通信の仕事に携わっていたならば、ハムになったとしても、恐らくほとんど運用はしなかったと思う。」と趣味としての効果を強調する。

現在のシャックでの井原さん。

井原さんは真空管のコレクタとしても知られている。これは井原さんが集めた真空管の一部。

井原さんの自宅にそびえるアンテナ。

また、小学校の理科の教師として、ラジオクラブや放送クラブなどの指導もしてきた。校外では、広島市の子供文化科学館の要請で子供達を対象に、年間5回ほどの「電波教室」の講師の一人としてボランティア活動を実施してきた。ゲルマニュームラジオなどのエレクトロニクス工作を指導し、電波とは何か、などの話しを続けてきた。このような活動を続けてきた井原さんは「物が豊富となり、青少年の科学する力が失われつつある」と今、悩んでいる。