香川県多度津町。香川県の中ほどに位置し、北は瀬戸内海に面し、南は讃岐平野につながっている。早くから良港として知られ、明治期に四国で初めて鉄道が敷かれた。久米さんはこの多度津に大正14(1925年)6月に生まれた。父親は当時「四国水力」に入社したばかりであり、母親、5歳上のお兄さんと四人が間借り生活をしていたころである。「四国水力」は現在の四国電力の前身の一つであるが、社名とそぐわない火力発電も行っており、父親は多度津の石炭火力発電所に勤務していた。

香川県多度津町地図。多度津は東は丸亀市、南は善通寺市に接している町である

この間借りしていたお宅を久米さんは戦後しばらくして訪ねている。「母親が記憶していた住所を聞き、あちこちで尋ねながら探し出した」という。運良く、当時お世話になった方が高齢ながら居られて「あなたはこの部屋で生まれたのですよ」と教えてもらっている。「そんなことを知ったところで意味は無かったが、出生の様子がわかってほっとした」と久米さんは思い出を語る。

父親は徳島県三好郡三縄村の「三縄発電所」に転勤した後、徳島市寺島本町の「三重合同電気」に入社し、故郷の徳島に帰ることになった。明治・大正時代は電気事業の黎明期であり、全国各地に電力会社が誕生、その後、その離合集散が繰り返された。徳島では明治41年(1908年)に「徳島水力」が創立され、徐々に県下の電力会社を吸収しつつ、規模を拡大していた。

大正12年(1923年)5月には三重県津市に本店を置く「三重合同電気」と合併、徳島支社が発足し引き続き周辺の群小電力会社を吸収していった。昭和12年(1937年)の4月には「三重合同電気」は、名古屋に本社をもつ「東邦電力」に吸収されて、その徳島支社となった。名古屋の電力会社の支社が徳島にあったのは、以上の理由からであった。この一連の動きには「電力王」と呼ばれた松永安左ヱ門さんについて触れる必要がある。

[電力王・松永さん]

松永さんは明治8年(1875年)、長崎県壱岐郡石田村に生まれ、波瀾の人生を送った人である。慶応大学に入学したものの、病気や事業のために中退、復学を繰り返す。事業では運送業や株取引で巨万蓄財、没落を繰り返した後、福岡に鉄道会社を設立したのを皮切りに、九州北部で鉄道や電力会社を設立し、また、既存の会社を買収。大正6年(1917年)には「九州財界のトップ」といわれるようになっていった。

松永さんはいよいよ電力業界の中央に乗り出す。大正10年(1921年)に三重県・愛知県を基盤とする「関西電気」の副社長に就任し、東海地区の電力、ガス会社を吸収合併。大正11年(1922年)には「関西電気」を「東邦電力」に社名を変更するとともに、本社を東京に移転させる。このころには「東邦電力」は、東京電燈、日本電力と並び、日本の5大電力の一社にまで成長している。

「電力王」の松永安左ヱ門さん(壱岐松永記念館蔵)

さらに、吸収合併を続けた松永さんは関東中心の「東京電燈」エリアにまで触手を伸ばし、激しい顧客獲得競争を展開、関東の多くの電力会社を傘下に加えて「電力王」と呼ばれるようになる。松永さんはこのような激しい経営競争を続ける一方で、電力周波数の50Hz、60Hzの2方式の統一提案、全国電力会社の連携構想を打ち出すなど、将来を見越した考えをもっていた。

話しがそれたが、久米さんの父親は昭和3年(1928年)1月、創立されたばかりの「四国電力」に迎えられ、同社の第1発電所への転勤となる。一家は徳島県の美馬郡口山村(現在の穴吹町口山)の社宅に移る。JR穴吹駅から10kmほど穴吹川を遡ったところである。久米さんの3歳のころである。「明けても暮れても川の流れと、水車・発電機の回転音を耳にして育った」と、久米さんはそのころを思い出すという。

[自然児・久米少年]

久米さんは平成15年(2003年)2月、「JARL徳島クラブ」や「TDXG=徳島DXクラブ」報に掲載するため「半世記」を書き上げた。ハム人生だけでなく、久米さんの人生そのものが綴られているこの「読みもの」は、その時々の生活の喜怒哀楽がほのぼのと染み込んでくるものであり、しかも、ユーモアも加えた素晴らしい内容である。この連載も多くをこの文章に頼ってもいる。

なかでも、3歳から13歳までの多感な10年間を描写した「穴吹時代」は、そのまま紹介したいほどの「昭和初期の懐かしい子供の世界の物語」で溢れている。春から秋にかけては川で遊びほうけ、畑の芋やなす、きゅうりを取ってかじる「山猿のような暮らし」であり、「元気に跳ねる野ウサギ」「家の回り散歩する親子連れの狸」「猿の大群が柿の木に鈴なりになっている」光景は、今では求めなければ望めない世界である。

昭和7年(1931年)久米少年は口山村立尋常高等小学校に入学。寒村ではあったが当時は子供の多い時代であり、1学年は約40名ほどであった。山村のため水田耕作地は少なく棚田が多く「そんな土地柄だけに麦の他、粟、黍(きび)とうもろこしなどが栽培されていた。現金収入を得るために煙草(たばこ)コウゾ、三椏(みつまた)が栽培されていた」と、久米さんは当時の村の生活ぶりを記している。