[旺盛な好奇心]

久米少年が興味をもったのは自然だけではなかった。発電についてもいつのまにか詳しくなっていた。「第1発電所」は、穴吹川の水を約5km下流に引き、落差51mの導水管で導き水車を回転させて、交流発電機2基を回し720kwの発電を行わせていた。「発電機は開放型で回転子の様子もはっきり見えた。毎日の運転操作、事故時の対応など身近に見ていたため、いつの間にか運転要領を理解した。後年の進路選択にそれが影響したように思う」と久米さんは言う。

久米さんがラジオに出会ったのは小学1年生のころだった。このころ日本放送協会(後のNHK)の徳島放送局が開局、ラジオ受信機を買うことになった。ところが、谷間の立地であり、発電所の励磁機のスパークノイズもあり受信ができない。そこで、発電所から離れた場所に、川を横断する大きなアンテナを張った。それでも「徳島放送局は聞けず、大阪放送局が受信できた」という。

久米さんの小学校3年生時代

しかも、夜になると大阪も聞こえなくなり、東京放送局などの遠くの局が聞こえだす。「子供にはフェーディングや電波のスキップなどは知るわけもなく、ただ夜になるとずいぶん遠くの放送が聞けるのに興味をもった」久米さんは、毎夜、ラジオの前でダイヤルを回してばかりいたため、父親によくしかられた。

夜9時になると「午後8時の時報をお知らせします。内地では午後9時であります」というアナウンスの旧満州の「新京放送局」や旧朝鮮の「京城放送局」が聞こえる。久米さんは時差があるのを知り、地図を広げて世界を意識するようになった。さらに、周波数の高いところで、メキシコシティ、東南アジアの放送を聞き「もっと遠くの局を聞きたいという好奇心を募らせた」と、当時を懐かしく思い出している。

[転校]

小学校4年生を終えると、穴吹の自然やラジオ放送を受信する楽しみと別れなければならなくなる。中学進学のためには、学力レベルの高い小学校に通う必要がある、といわれ、徳島市近くの伯母の家に預けられることになった。現在は徳島市となっている名東郡下八万村の八万小学校に5年生から編入。しかし、この小学校ものんびりしたものであった。

校区はほとんどが農家であり、農繁期になると子供達に農作業を手伝わせるためにたびたび授業は早く終わった。徳島市内の小学校では6年生にもなると中学進学のための特訓があるが、この小学校ではそれも無い。中学志望者は1人か2人。工業学校や商業学校などの職業学校への進学児童がぼつぼついる程度であったので当然だった。久米さんは「なんとか進学しなければと、付け焼き刃ながら勉強した」記憶がある。

[日本学制の変遷]

戦前の「学校制度」は、実に選択の余地が広いものであった。日本の制度は、明治6年、25年、33年、41年、大正8年と改訂されており、久米さんの中学入学時はまだ、大正8年の制度だった。6年間の尋常(高等)小学校で義務教育は終わったが、進学は、中学、高等女学校、実業学校(乙種)実業補習学校、徒弟学校、補習科などがあり、さらに、その上には高等学校、専門学校、高等師範学校、実業学校などがひしめいていた。

明治維新後「富国強兵」を掲げた日本は、教育には極めて熱心であった。それ以前の日本でも義務教育制度はなかったものの、各藩は藩校を設け、また、一般庶民には「寺小屋」があり、日本人がこぞって学問に励んだ。このような教育好きな国は他にはほとんどなく、当時の日本人の識字率は世界で最高であったといわれている。

国民にこのような素地があったために、明治以後の教育は政府の考え通りに進んでいった。しかも、単なる知識の培養が目的ではなく、実際に社会で活動できる職業に応じた教育制度を作り上げてきた。このため、複雑ではあるが選択肢の広い「学制」になったといえる。ちなみに、戦後の昭和24年(1949年)の改革では極めてシンプルなものとなった。米国の制度が採り入れられたためである。

[久米さんの中学時代]

昭和13年、久米さんは徳島市にある徳島中学に入学する。八万小学校からは1名だった。「周りを見渡すと、徳島市内の一流校出の秀才顔ばかりで、これはえらいことになったと心配になった」と、久米さんは不安をもつ。しかし、再びラジオへの興味が涌き出す。伯母のところの従兄が機械関係の技術屋であり、本箱には「無線と実験」「朝日カメラ」などの科学関係の本が詰まっていた。従兄は10歳年上で、高等工業を卒業したばかりのサラリーマンであった。

「無線と実験」は、大正13年(1924年)に無線実験社が創刊した雑誌であり、それ以前には「ラヂオ」が大正11年(1922年)、「科学画報」が大正12年(1924年)に創刊されている。また「無線と実験」と同じ年には、無線之研究社が「無線之研究」を発刊。大正末期はラジオ雑誌の創刊ラッシュであり、これらの雑誌を読んだ「ラジオ少年」が後にアマチュア無線家に育っていった。

「無線と実験」大正15年4月号、「無線之研究」昭和2年4月号