久米さんは伯母の家にあった暗室に入り、従兄の写真現像、焼き付け作業を手伝い「写真作成の細かいノウハウをマスターした」が、それ以上に夢中になったのがラジオだった。最初は「ハムの入門」ともいえる鉱石ラジオを作ったが、やがてUV-30の真空管2本を使った0-V-1の組立てに挑戦する。当時の小遣いは月2円。それを貯めて部品を買い集めた。

その時に、いろいろと面倒を見てくれたのが市内の大道4丁目にあった三枝ラジオ商会の三枝亀三郎さんだった。三枝さんは元海軍の通信下士官であり、無線通信に詳しかった。後に代表的な「冤罪事件」として知られた三枝さんであるが、詳しくは既に終わった連載「四国のハム達。稲毛さんとその歴史」「関東のハム達。庄野さんとその歴史」にも触れている。この2つの連載では店名が「三枝電気」や「三枝ラジオ」となっているが、正確には「三枝ラジオ商会」であることが今回わかった。

0-V-1の製作で、久米さんは当時の「ラジオ少年」がそうであったように、極力手元にある材料を活用した。硯箱のふたをシャーシとし、電源は自転車の前照灯の電池をばらして使った。ヒーター電源は2V、B電源は22.5V。出来上がったラジオをレシーバーで聞きながら、海外放送のリストを作るのが楽しかった。放送の周波数をアナウンスから確認して、同調コイルをほぐしては巻き直してアマチュア局(当時は施設短波実験局)の周波数を探した。

旧制徳島中学4年生の久米さん

[アマチュア電波をとらえる]

波長計など測定器もなく、手探りで周波数を知るしかなかった。やがて、アマチュア無線の交信が聞こえ出した。「今も覚えていますが、東京の齋藤健(当時J2PU、戦後JA1AD)さんであることを知った」と、久米さんはその時の興奮ぶり話してくれた。そして「いつか自作の無線機で電波を出したい」との思いを強くしていった。短波では海岸局の電波を聞いている間に、モールス信号も覚えることができた。

同級生250人の中に同じラジオ少年が見つかった。「どういうきっかけかは忘れたが、島田玄太郎(後にJA5EN)さんと知り合う。島田君は学校の近くに住んでいたので自作の受信機の見学に立ち寄り、いろいろ教えてもらい、ずいぶん刺激を受けたものである。後々、ハムを始めるうえでの決定的な出会いだった」という。

2人は「毎日のように無線の話に夢中になり、お互いに多くの情報をつかもうと勉強した。ついには電波を出そうとまで相談したこともあった」ほどである。無線に夢中になっているうちに中学を卒業。昭和18年(1943年)徳島高工(現在の徳島大学工学部)電気工業科に入学。昭和16年(1941年)の12月に始まった太平洋戦争も日増しに激しくなり、日本軍の劣勢も明らかで、既にアマチュア無線の交信も聞こえなくなっていた。

アマチュア無線は、基本的には日米関係が険悪になってきた昭和15年(1940年)後半ごろには免許が停止され、軍部に協力するハムを除いて開戦と同時に交信は禁止された。久米さんのハムを目指した願望は打ち砕かれた。戦前にハムになれなかった世代であり、しかも戦後も長らく再開まで待たされた世代でもあった。

[学徒動員]

さらに、久米さんの青春時代に暗い体験が襲いかかる。学徒動員である。青年はすべて戦場に駆り出され、国内の労働力が不足し最終的には女性や小学生までもが、軍需工場や人手不足の農業の手伝いに狩り出されたのが学徒動員である。通常は近くの職場に割り振られるが、久米さんらは神奈川県川崎市の東京芝浦電気小向工場に配属される。

東京芝浦電気は現在の東芝であり、昭和14年(1939年)に東京電気と芝浦製作所が統合されて東京芝浦電気に社名が変わっており、小向工場では通信機を製造していた。太平洋戦争は末期になっており日本軍は各戦線で敗退を続け、日本本土も爆撃を受ける日々だった。

太平洋戦争中の軍用無線機(東京芝浦電気とは関係ありません)

[戦時下の悲惨]

「飢えに耐えながらの地獄のような深夜作業、夜は米国の爆撃機B29による爆撃、昼間は艦載機による機銃攻撃と連日連夜の空襲で仕事も満足に出来なかった」と、久米さんは苦しい動員生活を記している。ソナー(超音波潜水艦探知機)の最終調整を担当したが「そこで体験した技術は、後に役立った」という。

久米さんらの寮の前を毎朝、小学校5、6年生の少女達が列をつくって進んでいく。皆、和服姿で、冬の最中にもかかわらず素足に下駄履き。「カッカカッカと音をたてながら声を揃えて歌うのはいつも“元寇”の歌だった」ことを久米さんは覚えている。“元寇”は、鎌倉時代にわが国に攻めこんで来た元軍を撃退した時の様子をうたったもので、わが国の軍歌の最初との説もある。